美とは




美とは何か
単に美しいと感じることだ。ただ人間が作り出した現実だとすると、
自然より美しいものは存在しないのではないか。ただ、どんな山より富士山以上
美しいものはない。美を見つけること探索することが美の発見なんでしょう。
ここでは、このことがはてまて正しいか探求するものである。
美を追及するにはとりあえず自然美を模倣するしかない。自然美を超えるものは
人間の英知では限界がる。しかしどこまで近ずけるかの挑戦には価値
があるのではないか。
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第1弾
第1章言語の美とは
ヘーゲルの美学を取り上げて「言語にとって美とはなにか」という難問に挑み、一定の成果を得るのである。なぜ一定の成果というと、「言語そのものの美」ではなくて、「表現された言語にとっての美とはなにか」について書かれているためである。言語そのものに内在している美について書かれていると即断していたが、小説や詩として表現された言語の美、それも歴史的な文学書を吉本隆明自らの理論に基づいて読み解き、解明された文学書の紹介を経て、最後に芸術論的な展開を行って締めている。吉本隆明は「言語の価値」と「文学の価値」とを分けすっきりと説明している。言語表現は韻律・選択・転換・喩によって表現され得て、文学はこれらを使用した自己表出へと進み、話し言葉は指示表出へと進むとする。ただ、文学作品を表出の歴史で扱うときは二重の構造を取り、表出の体は文学体と話体として成り立っているとする。こうして、近代の文学を引用して長々と説明する。文学作品の価値の本質を知るにはその作品の「構成」を知ることだと主張する。「構成」とは有形的なものを指し示す指示表出の空間の展開、時代的な空間の広がりであると吉本隆明は主張する。吉本の主張を単純に言い変えれば、自分の考え思うことをうまく主題として展開させて的確に記述することであると思われる。「文学的価値」について、自己表出からみられた言語表現の全体の構造の展開を文学の価値と呼ぶと述べている。
自然が作る形こそが、美しさの元であるということ。例えば生き物は自然淘汰の中で、もっとも効率よい形をつくってきた。とくに力を入れているのがフラクタル(自己相似性)について。雲や稲妻や海岸線などは、どれだけ拡大・縮小しても形が変わらない。秩序がないと思われていた形にも、じつは数理的に表すことができたという話だ人間は、フラクタルについてだんだんとわかってくると、人工的にフラクタル図形を作り出していった(コッホ曲線とか、シェルピンスキーのガスケットとか、デザインなどに取り入れられていくだろうから、基本を知っておくにはよい。1箇所だけ、数式(対数log)が出てくる。それ以外はすべてふつうの日本語で書かれているので、難しいところはほとんどなし。具体例も豊富。キュビズムの代表作とされるピカソの「アビニヨンの娘たち」から、日本の家紋12種まで、特徴的な形がつぎつぎと出てきて飽きない。眺めているだけでも楽しい。

第3章歴史にっとって美とは
本書は井尻の遺稿集である。単行本未収録の論文を集めたもので、主要論文に「醍醐帝とその時代」が挙げられる。「醍醐天皇とその時代」の初出は平成二十五年に「新日本学」に掲載されたものである。井尻はその翌年に入院し、平成二十七年に亡くなった。本論文は井尻の最期に遺した論文といってよい

第4章言葉にとって美とは


意識と対象の関係が成り立たないという主張が鮮明に残っている。
さて、本書を読んでみると結構な力作である。「表現された言語にとっての美とはなにか」について書かれているためである。言語そのものに内在している美について書かれていると即断していたが、小説や詩として表現された言語の美、それも歴史的な文学書を吉本隆明自らの理論に基づいて読み解き、解明された文学書の紹介を経て、最後に芸術論的な展開を行って締めている。言語は表現を通してしか成され得ないはずであり、この観点からすると「言語そのものの美」の考えは狭義であり、あり得ないのかもしれない。吉本隆明は「言語の価値」と「文学の価値」とを分けすっきりと説明している。言語に「美」は無関係であって、表現された文章や小説に「美」があるかないか、もしくは言語表現の美的かつ「質的な差異」がどうして生じてくるかが問題なのである。質的に高い心を打つ表現がなぜできるのかが本来的な課題なのである。こうした本来的な課題に基づき、吉本隆明は詩を例にあげて質の高い表現の仕方を少し説明している。小説の価値についても美についても論じているのはとても良いことである。言語表現は韻律・選択・転換・喩によって表現され得て、文学はこれらを使用した自己表出へと進み、話し言葉は指示表出へと進むとする。ただ、文学作品を表出の歴史で扱うときは二重の構造を取り、表出の体は文学体と話体として成り立っているとする。こうして、近代の文学を引用して長々と説明する。
さらに文学作品の価値の本質を知るにはその作品の「構成」を知ることだと主張する。「構成」とは有形的なものを指し示す指示表出の空間の展開、時代的な空間の広がりであると吉本隆明は主張する。吉本の主張を単純に言い変えれば、自分の考え思うことをうまく主題として展開させて的確に記述することであると思われる。そしてここでは「竹取物語」などの古典が題材として取り上げられている。最後は「文学的価値」について、自己表出からみられた言語表現の全体の構造の展開を文学の価値と呼ぶと述べている。どうも簡単明瞭にて理解できる、もしくは理解できなさそうな定義である。


第5章形の美とは

自然が作る形こそが、美しさの元であるということ。例えば生き物は自然淘汰の中で、もっとも効率よい形をつくってきた。また無生物の岩も、上流から下流へと流されていくうちに角が削られていき、丸みを帯びた形になっていく。こうした形はオーガニック形体といい、人工的にオーガニック形体を作ることも可能らしい。
 この本でとくに力を入れているのがフラクタル(自己相似性)について。雲や稲妻や海岸線などは、どれだけ拡大・縮小しても形が変わらない。秩序がないと思われていた形にも、じつは数理的に表すことができたという。
 人間は、フラクタルについてだんだんとわかってくると、人工的にフラクタル図形を作り出していった今後ますます研究が進んで、デザインなどに取り入れられていくだろうから、基本を知っておくにはよい。
 フラクタル次元の話で1箇所だけ、数式(対数log)が出てくる。それ以外はすべてふつうの日本語で書かれているので、難しいところはほとんどなし。具体例も豊富。キュビズムの代表作とされるピカソの「アビニヨンの娘たち」から、日本の家紋12種まで、特徴的な形がつぎつぎと出てきて飽きない。

第6章科学の美とは



人々が「アートの目的とは何か」について議論することがありますが、アートの目的とはアートそのものにあります。対象物に没入すること、アートにそれ以上の目的はありません。「美的経験はアート作品だけではなく、自然のものからも得られますし、多くの人は美的経験を持っていると思います」とチャタジー氏。ある人が美しい庭に完璧に魅せられること、少なくともそれは美的経験の定義の1つと言えます。

第7章科学の美とは

芸術の起源を集団的な感情の喚起をもたらす象徴的なものに求め、地域的、部族的、民族的様式が生まれ、伝承によって定着してきたものとしていることです。このようにして生まれた芸術が、次第に近代的な自我意識を備え、個性的で多様な形式が増えていくことによって、死に向かっているのではないかと著者は考えます。つまり、人間が言葉を覚えや知恵、知識が増えていくと「集団的な象徴」としての役割から離れ、独りよがりになっていく危険性があると警告しているのです。現代社会。この本の主張する「古き良きもの、共有財産であった美」の感覚が淘汰されているのは事実です。本書の発刊がその消費社会の弊害に目を向けるきっかけになるのではと、考えております。

第8章方法の美学—建築にとって美とは何か 
優れた美学的な提案とは、問いに始まり、問いで終わるようなもの。1960年代に生まれたアルテ・ポーヴェラは美術と生活の隙間の価値を問いかけた。現代においても、いや、マーケット論理の限界が見えている現代においてこそ、この問いの価値は高まりをみせているように思われる。「貧しい建築」の豊かさをめざした住宅が問いを発し、問いで終わることが出来たかは、読者の批評に任せたい。

第9章「女」にとって〈美〉とはなにか?
心の美と、立ち居振る舞い、素敵な言葉。
この三つが相まって初めて、美人が誕生します。

「美は日本のアイデンティティを成す」ことと「重層性」という二つの日本美の外的特徴から、次に内的属性として、「不完全性の表現」「消極性の積極的受容」「主客未分」を抽出し、これらについて順に論じている。分析対象としては、サブタイトルにある「もののあはれ」から「かわいい」までの言葉を挙げ、岡倉天心、本居宣長、大西克礼、九鬼周造、四方田犬彦らの言説を、時に批判的に援用しつつ、鋭く日本美に迫っていく。その底流には、日本の二人のノーベル賞作家、川端康成と大江健三郎の受賞講演のタイトルである、「美しい日本の私」と「あいまいな日本の私」がある。

要するに、個別具体の日本美の審判ではなく、それらが日本固有の美なのかという問いの中で、「日本」なるものの全体像ないしは本質を示そうとするわけである。本書のタイトルが「日本の美」ではなく「美の日本」であることの戦略は明らかである。

第10章ゼロからの美学
○1部は、プラトンを機縁として、イデアールな世界を、現世に映すかがみとしての、
美的感覚をとらえ、アスペクト(位相)という多面的なとらえ方を唱えます。
その後で機能、目的、こころよさ、形式といった面から美を探究し、
仮象(カリスマ)というあらわれに至り、それをとらえる感性と美の固有性に触れ、
問い方じたいの発展性にも言及しています。

○2部は、芸術論となっており、芸術は学問の対象になるかと問うことから始め、
次に技術としての芸術や、記号学者バルトによる「作者の死」論、
ジャンルあるいは潮流的なものの危殆あるいは無難な相対性に触れている点はむしろ注目であり、
美学以外の分野でもいえそうなことでしょう。

さらに、言語で思索することから不可避な点、つまり記号の二重性(シニフィアン/シニフィエ)とか意味作用、
潤沢なイメージとの関係を検討し、概念との齟齬についても触れています。
ついで活版印刷や書(カリグラフィー)、詩や歌など文学作品をも例にとるかたちで、
時代などとともに変動する要素をも射程におさめつつ、伝統芸能との渡りをつけ、
最後に社会芸術学的新しさなどアクチュアリティーも示唆、とりわけ現代アートと美を関係づけています。
一般美と固有美に分かれるような感じがし、著者はむしろそうしたことをアスペクトと言い習わし、
実在的対象が美という固定観念(ステロタイプ)を生むのではない、という感じもします。

第11章男の美学
本全体は、2部に分かれていて、第1部が「美学とは」、第2部が「美学の歴史」となっている。戦後すぐの時代に書かれたものなので、映画や機械や技術に対して、積極的な評価や期待を述べている。そのような時代的な制約はあるけれど、「美とはなにか」、「芸術とはなにか」などの根源的な問いかけは、時代を越えて、却って普遍的な問題を浮かび上がらせているように思える。哲学的な解説についても、簡潔だが的確な説明がなされている。今の大学で教えられている「美学」からすると、また別の本もあるのだろうが、私にとっては、芸術に触れたときにあれこれ感じること、考えることを、この本を通して考え直すことで、満足している。

第12章ももクロの美学


青春ガールズムービーと同じ構図というのは、なるほどなあと思った。映画もあったが、爆発的ヒットは少ない。あとはとにかくハイブリッドらしいが、なんでこんなに人気になっているのか理解できない。まあ、本書に書かれているような要素の“ハイブリッド”の結果なんだろうな。
第13章署の美学


本書は、書を絵画的な造形の美ではなくて、言葉をつむぎ出す力と捉え、書の芸術性を明らかにしていくものである。筆蝕=筆記具の尖端と紙が接触し、離れつつ書き進められていく過程 を、書の欠くべからざるものとし、その意義を書史からも展望しており説得力がある

第14章詩人・菅原道真 うつしの美学
あまり知られていない詩作を「うつし」の観点から見てみようという本。本文が読みやすいばかりでなく、紹介された菅原道真の漢詩も平易・直接的でわかりやすい。異なる言語体系とその詩文の構造を学んだ人間が書いた異言語あるは母語での詩文の与える感興というのは、確かに同時代的な問題だろう。
副題にもあるように「筆蝕」が本書のキィワードか。

たくさんの「地域アート」が催されており、また世界的にもそうである。また、現代では「芸術」「芸術家」という言葉に代わって、「アート」という語がよく使われる。従来とは変容しつつあることを示している。そのことが「地域アート」の考察から見えてくる。主として大都市ではない場所で行われる地域アートには、さまざまな作品が展示され、多数の観客が集まる。しかし多くの場合、自治体から資金援助がなされており、地域アートは、まずもって「地域おこし」「地域振興」のために位置づけられている。しかし、そこには芸術として優れた作品が展示されているのかといえば、そうとも言えない。著者によれば、美術は人間によって創造された新しい表現であるが、それが我々の感性そのものを拡張するところに、その意義がある。美術館の展示の意義はそこにあるが、多くの地域アートにおいては、観客の「参加」に重点が置かれ、コミュニケーションとしての芸術という新しい在り方が模索されている。喚起するというのが地域アートの重要な役割なのである。
解体されましたが、「ソニービル」を建築された芦原義信氏による古典的名著です
日本は、家の中までを「内部空間」ととらえるのに対し、海外は、家の外までを「内部空間」ととらえること
と言えるでしょうか、その内側だけをきれいにすればいいということになり、街並みには注意を払いません、
特に、美しい「ヨーロッパの街並み」を見ていると、日本も、こうならないかなと思います。
現代プロ野球では絶滅危惧種に指定されている「求道者」だろう。風貌、立居振る舞いはまさに剣豪のようだ。野球。スポーツではなく野球道。日本語が似合う選手だ。
「孤高」という言葉も似合っていたが、ここ数年は野手のキャプテンとしてチームを引っ張っていこうとする姿勢が感じられる。選手生活も晩年を迎えているので、昔のように青白い炎が漂うような殺気は多少薄れてきたが、そのかわりに円熟という言葉が似合うようになってきた。口数も少ないが、「前田は死にました」をはじめ印象に残る言葉が多い選手だ。
 本書は戦争の始まる前年昭和15年までの比較的平和な時代の日本の映画史を概括している。映画の草創期を解説しており、現代人から見ると、すでに歴史の領域に入ってしまった時代ではあるが、かつて飢えるように見た映画文化をまとめて知ることができる。
ベルリン大学でのヘーゲル美学講義、アッシュベルクとテルボルクの筆記録からの新訳です。この新訳は、自然と人間精神ということを軸に、芸術、美、象徴、愛、抽象と具体、詩歌の韻律やイタリアの音楽の旋律美を例に挙げ、のちのホトー版にも垣間見られる青年ドイツ派としてのヘーゲルの美学観を、眼前で講義を受けているように再現してくれます。

第1弾のまとめ
美とは何か
カントは価値に真善美がある、
牧口常三郎先生は美利善の順番に価値は創造されるという。
美の究極はそこにある本質をみいだすことという。
仏法でいう仏性である。
ただ仏性を見出すにも釈迦は帰納的、随他意に日蓮大聖人は演繹的に随自意に行う。

第15章鉄砲玉の美学


幻の作品といえども低予算で作られた感が強い
うさぎや人間が食べ物を食す描写がかなり汚らしい
主題歌のロックなど70年代のアメリカンニューシネマやヨーロッパ映画にありがちな描写が多い
演技と言うよりかは自由に地で行く
この本のなかで著者は日本のそれぞれの時代において趣味の洗練・美しさを賞して使われた「みやび」「婆娑羅」「わび」「さび」「いき」「風流」などの言葉をたどりながら日本人が経験し涵養してきた《美学》の在りようを浮かび上がらせる。この書名を見て、これにいかにも似た書名を持つ《美学》の《名著》を思い出さないものはいないだろうが、読後感は大いに違う。《美学》というのは自分の感じ考える美とは何の関係もないらしい、と思ったものだった。『いきと風流』の著者が読者の前にくりひろげてくれる風景は雨後の里山のように晴れやかで瑞々しい。もっとも昔の《名著》の方へのこの感想は、自分が勝手に思い込んでいた《美学》と学術用語としての《美学》の間にある大きな径庭からきたものらしく、『いきと風流』の著者はこんなふうに書いている。
世間は《美学》を誤解している、ということになる。「もし歴史的に用いられてきた学術用語としての『美学』に代えて、世間の実際の用法に合わせてもうひとつの『美学』を考えるとしたら、それはどのようなものになるだろうか」と書く。そしてそれに自ら応えて「それは『生き方のスタイル』や『生活のデザイン』について、私たちがなぜ美的判断を必要としたのか、またどのように美的判断を行ってきたかの研究になるだろう」という。すなわち本書の副題《日本人の生き方と生活の美学》である。《美学》へのアプローチを著者は遊宴の場で繰り広げられる万葉の歌の成り立ち分析から始めるのだが、その議論はきわめて説得的であると同時に、そのあとに展開される《遊宴・社交》のなかでの《美学》の流れの源泉ともなっている。そう、ここで論じられているのは近代的な個人が耽るゲージュツでもその個人が崇める野生の自然でもなく、文明化された生活のスタイルと文明化された自然の歴史なのだ。わたしたちがとうに知っていたもの、常にわたしたちとともにあったものだという感覚なのだ。ただ、それはこの本に出合うまではこんなに鮮やかに見えることはなかった、日本人が日本人を理解するということは、この感覚をつかみ、この感覚につかまれることの他にあるだろうか。小さな本だが、この本は日本の美学を学ぶことを願う人の先ず読むべき一冊になるだろうと思う。
著者はあとがきの中で言っている。
「西洋の学問を無条件で輸入していたころ、書や茶道を研究したい日本の美学者は、まず、書も芸術だ茶碗も芸術だと主張して、それらを西洋的な意味での『芸術』に格上げするという準備作業が必要だった。けれども『芸術』という概念自体に疑問符がついている今日、そんなことはもうしないでもいいだろう。」
この《日本》の《美学》の《歴史》には、懐古趣味のかけらもなければ、《民族》のいやなにおいもしない。この本の万葉、新古今、江戸のいきは、ただ21世紀の東京を生きている。
日本の自然と風土と深く関わり、長い歴史と伝統に根差した伝統文化の茶道。元は中国の異文化を見事なまでに導入し、日本人の精神性にまで昇華させた。武家貴族から商人・一般庶民にまで普及していく。本書でも指摘されているとおり、時代とともに茶道の伝統や作法は変化し、当初のそれとは大きく変質しているのかもしれないが、日本人の精神性のルーツを辿ってみたいと思うようになる。
「日本坂道学会」の副会長ことタモリさんがお休み処までが記されたガイドブックです。
写真もとても綺麗ですし、タモさんの洒脱な文章も楽しい。
それに「まえがき」がまたタモさんならではの哲学的な面白い内容で
このためにだけでもこの本を買って良かった、と思わされました。
日本はまさに世界でも珍しく「徳」というものがない国になってしまったのではないか、....徳、それを体現した人たちが、いま一人でもいるだろうか…本書第19話「徳」

 バブル経済などによって、日本人の“美質”は歴史の片隅に吹き飛ばされたような気がする。その“美質”を、再び私たちの前にたぐり寄せようとしていたのが中野さんであ「矜恃」、「誠実」や「清廉」などの話は、いずれも“美風”あるいは“美徳”に関わる、「美徳なき時代」を生きる私たちに触れる。
モネなど印象派の画家をモデルとしている、と考えられてきた『失われた時を求めて』の登場人物エルスチール。プルーストに多大な影響を与えたイギリスの批評家ジョン・ラスキンの思想や、
同時代のさまざまな画家たちの作品とも比較しながら、芸術観・文学観を浮き彫りにする。
マオさんの人間性が垣間見れて、おもしろかったです。

第15章車の美学
この車は旧車と言える程古くなく、開発に関わった方の多くはまだ存命だと思いますが、インタビューは掲載されておりません。開発に関わった方に、当時は話せなかった裏話等お話を聞いて欲しかった。個人的にはこの車の最大の魅力は、今も色褪せない流麗な内外装のデザインだと思うのですが、88年発行の方には掲載されていない後期型に搭載されたSRエンジンに関する記事で語られた使い勝手徹底チェック2016も面白いと思いました。
お花は自然のものを切ってさらに美しさを表現させるものです。
 空気を感じてご自分の 好きな風景が絶対に見つかると思います
素敵な大人(森氏の言葉を借りると“ハンサム・ウーマン”)に成長するための
“作法”、“心得”、“忘れてはいけないこと”、そんな事柄について
美しく、才能に溢れ、そして痛み知っている。時に厳しく、時に優しくアドバイスを与えて
くれる。他の正しい道があるのだ、ということを知ることが出来る筈。
それは著者のこだわり続けた様々な“美学”に貫かれた、得がたい助言から学べる
ことだろう。
個としての思想がぶつかり合い、決して昇華されないドグマを抱えたままに進む対談には、正確な熱量と深い愛情が交差し、それぞれ一流の思想家であるのと同じくして賭博師としての匂いを感じるのは、陶酔的なロマン派から大きく逸脱した、似て非なる文化としての競馬論です。競馬をより深く理解し確認していくためには必ず文化としての競馬を意識するものと思います。
 道真の漢詩業というのは「うつし」の典型だと言うのが大岡先生のお考えで、その考察は博覧強記と詩人ならではの鋭敏な言語感覚、また詩人という生き物に対する深い理解から大変示唆に富んだ内容になっており、漢詩文の内容の濃さ-人間性への深い洞察と深遠な思想性-ときびきびとした男性的なリズムや思想性以外に詩型という観点もあるのだということを教えていただきました。この種の資質はわが国の詩人の中には、まして政治にかかわる人間の中には稀有のそれだと言えると思います-それが菅原道真でした。
 民衆の苦しみに無関心でいられなかった詩人道真だからこそ、その思いや情景を歌に詠み、また朝廷でも披歴し、結果藤原氏に危険視される要因を作る形になって大宰府配流という憂き目に遭うことになってしまった・・。これは歴史上、清廉の士の身を焼く試練の炎、命さえ奪う非情の運命です。千載ののちも日本人の心に名を轟かせ、だからせめてこの詩人の誠をささやかながら讃えたいと思い、ぜひご一読ください。
 
19世紀ロマン主義の、観念や感性を扱う美学とは異なり、論理的に問題点を現代的に洗い出す、論争的な美学です。
第1章芸術の定義、1「アートワールド」(1964)のダントーはソクラテスやハムレットの鏡像(芸術の再現模倣ミメーシス)理論からくるフィクションでない、リアリティであるすべての存在の本性を芸術相関的な術語で読み解くアートワールドを提起します。
同2「芸術とは何か-制度的分析」(1974)のディッキーは、社会制度としてのアートワールドにおける、理由づけとしての美的理論を提起し、アート作品の認識論と存在論とを結びつけます。
第2章美的価値 3「芸術批評における理由」(1958)のジフは、作品の異なりに応じて、どのような見方がふさわしいのか、という点を「アスペクト視」という用語でカントのいう「観照」問題を解いていきます。
4「美的概念」(1959)のシブリーは、美学・感性学がバウムガルテン以来もちいているさまざまな形容詞的表現を、美的質と非美的特徴という切り口でカント以来の「無関心性の美学」へのカウンターとしての「美的関心」を用語のカテゴリー論から論考しています。
5「芸術作品の評価と鑑賞」(1980)のマゴーリスは、美的趣味判断について、カントから先のシブリー、あるいは次のビアズリーの言を受けながら、芸術作品の文化的性質と感覚知覚の相関関係、批評とラディカルな主観主義の違いと近似性などをうまく比較しています。
第3章作品の意味と解釈6「視覚芸術における再現」(1958「美学」第6章)でビアズリーは、「視覚的デザイン」という観点から、視覚芸術における再現(representation)と表現の関係を、図形や象徴といった用語の定義や作用を例示しながら、各用語から実際の絵画における主題の作用因をうまく抽出しています。
7「文学における意図と解釈」(1996)でレヴィンソンは、作者と作品との関係性において、意味論的意図主義や仮想意図主義について、ルイス・キャロルなどを批判援用しながら「意図なき意味はない」というクナップとマイケルズのスローガンに対する答えを例示しています。
8「フィクションを怖がる」(1978)でウォルトンは、主著「ごっことしてのミメーシスー再現芸術の基礎づけ(1980)」の基本軸を展開しています。
9「不道徳な芸術礼賛」(1997)でジェイコブソンは「道徳的な価値と美的な価値には一部のひとが考えるよりも密接なつながりがある」とする先のウォルトンを批判的に引用しているように、読者を時に論争的な場に立ち会わせます。
そうした問題提起や論争になんらかの美学的・論理的興味をもった方は、その先にある分析美学の世界の扉を開けることができるでしょう。また、その扉でしばし推考することもできます。
瀬戸内サーカスファクトリーとか、他のサーカス的なカンパニーの宣伝なんかを見ている中で居る人が「これは芸術だ!いいモノだ!なんで評価しないんだ!?」って直接でも間接でも主張してる人がいて、なんとなく違和感を感じていたんだけどこの本から、その感覚を解くとっかかりになるかも?みたいのがあった、その例は確か、リミナリティーっていう章の例だった、常識というか規範というか、そういうのが壊された状態を作ることに重きを置いている人がいて、これは芸術だ!これは演劇だ!みたいな規範から逸脱させることこそパフォーマンスの美学だって考えてそれこそが目的みたいになっている演出をしてたらしい、一方でこれはーーだっていう答えが得られない状態は、「芸術にふさわしくない」って見方がかなりあったようでそれを解決するために、そのパフォーマンスのパトロンが「これは芸術だ!」って書かれたビラを配布したらしい、違和感は、これは芸術だ!とかそういうのはかなりナイーブで本質的な問題だからそれを宣伝とか商業的な目的のために口にするのはおかしいって感情だったのか?パフォーマンス自体がそれとは相反するはずなのにって感じてたからなのか。
 ポール・ド・マンの筆によって、美学の歴史が閲覧することができる。
私の引かれたのはやはり、西洋の巨人ヘーゲルの美学と崇高論である。
内なる絶対を転写した形態が”美”であり、また形体なる物全てを排した物=偶像破壊が、彼にとって崇高そのものらしい。

第16章美学のまとめ
美学とは本質や構造を、その現象としての自然芸術及びそれらの周辺領域を対象として、経験的かつ形而上学的に探究する哲学の一領域である。森鴎外により「審美学」という訳語が与えられたが、現在では美学と呼称される。
伝統的に美学は「美とは何か」という美の本質、という美の基準、「美は何のためにあるのか」という美の価値を問題として取り組んできた。科学的に言えば、感覚的かつ感情価値を扱う学問でもあり、ときに美的判断そのものを指すこともある。より広義には、この分野の研究者たちによって、美学は「芸術文化及び自然に関する批評的考察」であるとも位置づけられる。
美学が一つの学問として成立した歴史的背景には、18世紀に啓蒙主義の思想と自然科学の確立に伴って表面化した科学認識と美的もしくは感覚認識の相違が認められたことと関係している。バウムガルテン理性認識に対して感性認識に固有の論理を認め、学問としての美学を形作った。後にカントは美学の研究について美的判断を行う能力としての趣味を検討し、趣味を支配する普遍的な原理は存在しないことから、美学を美そのものの学問ではなく美に対する批判の学問として位置づけた。ここから美学はシラーシェリングヘーゲルなどにより展開された美に対する哲学的批判へと焦点が移行するが、19世紀から20世紀にかけて美の概念そのものの探究から個別の美的経験や芸術領域、もしくは芸術と他の人間活動との関係にも考察が及んでいる。
なお、日本語の「美学」は、本来の意味から転じて勝敗利害を超越した信念の持ち主を評するときに用いられることがある。
ドイツの哲学者アレクサンダー・バウムガルテン1750年に『美学』 (Aesthetica) を出版したことが、美学が哲学の一領域として定式化される一つの契機となった(バウムガルテンは、最初の著作『詩についての哲学的省察』の中で既に、の美学的価値の原理的考察を思考する学として aesthetica という学を予告している)。
この aesthetica という語は、古典ギリシア語 αἴσθησις(aisthesis)の形容詞 αἰσθητικ-ός(aisthtike)をラテン語化したもので、二つの語義を持っていた。一つは「感性的なるもの」であり、他方は、「学問」(episteme)という語が省略(ギリシア語での慣例による)された語義である「感性学」である。
バウムガルテンがどちらの意味でこの語を使用しているかはその諸著においても曖昧であるが、遅くとも『美学』以降では、後者の意、さらに詳しく言えば「感性的認識論 scientia cognitionis sensitivae」の意で用いていることは明らかである。
バウムガルテンによれば「美は感性的認識の完全性」(『美学』14節)であるから、aesthetica(「感性的認識論」)は「美について考察する学 ars pulcre cogitandi」(同1節)である。一方、「完全な感性的言語 oratio sensitiva perfecta」(「詩」を指している)を典型とする芸術一般は美にかかわるから、aesthetica は「芸術理論 theoria artium liberalium」(同1節)である。
( aesthetica = 感性的認識論 = 美について考察する学 = 芸術理論 )
バウムガルテンの体系においては、美や芸術に関する学的考察である感性的認識論は、理性的認識論との対比において「疑似理性の学 ars analogi rationis」であり、「下位の認識論 gnoseologia inferior」(同1節)として位置づけられた。
その淵源はプラトンにまで遡る。イマヌエル・カントの『判断力批判』、シェリングの『芸術の哲学』講義、ヘーゲルの『美学』講義などを経て、フィードラーde:Konrad Fiedler)の「上からの美学」批判を受け、現代に至る。現代美学において特筆すべきは、・実存主義分析哲学ポスト構造主義によるアプローチであろう。バウムガルテンの「美学」は感性」を表すギリシャ語から作ったラテン語の造語「Aesthetica」に由来する。彼はフランクフルト大学で1742年からこの「美学」の講義を始め、その後も再度の講義要請があったことから、もとの講義内容に若干の加筆修正を行い、これをラテン語で出版した。『美学(Aesthetica)』第1巻は1750年、更に第2巻が1758年に出版された。
美学の目的は、感性的認識そのものの完全性にある。然るに、この完全性とは美である。そして、感性的認識そのものの不完全性は避けられねばならず、この不完全性は醜である。(第14節)
美学の出発点は、知性的認識の学としての論理学を感性的認識の学で補完することにあった。

日本の美学は、中江兆民がVeronの著作を訳して『維氏美学』と邦題を付けたことによる。日本の高等教育機関における美学教育の嚆矢は東京美術学校および東京大学におけるフェノロサのヘーゲル美学を中心とした講義、森林太郎(森鴎外)による東京大学におけるE. V. ハルトマン美学ら当時の同時代ドイツ美学についての講演、およびラファエル・フォン・ケーベル(ケーベル先生の呼称で知られる)による東京大学での美学講義である。また京都においては京都工芸学校においてデザイン教育を中心とする西洋美学および美術史の教育がなされた。なお東京大学は独立の一講座として大塚保治を教授に任命、美学講座を開いた世界で最初(1899年)の大学である。

近代以前の日本には、西洋のような一貫した形での思索の集大成としての「美学」は無い。しかし、いきわびなどの個別の美意識は、古くから存在しており、また茶道日本建築伝統工芸品などを通して、さまざまな形で実践されてきた。また、歌論、能楽論、画論などの個別の分野での業績はあるものの、孤立した天才の偉業という色彩が濃く、一枚岩の美学ではない。これらの美意識は、自然と密接に関連しているが、西洋美学は、近代以前はもっぱら「人間」を中心に据えた「芸術」のために発展した。そのため、日本の美意識は、西洋美学の視点からは、十分に記述・説明することができない。近代以前の日本の事物について、「芸術」という視点を持つ美学から論じると、学問的文脈を無視した議論となり、慎重を期すべきである。日本人自身も、日本の美意識を、明快に定義・説明することが困難であるのが現状である。今後、複数の視点を生かした研究が待たれる。
歴史的に見ると、日本神話の天の岩戸の挿話は、民族の危機が歌舞(うたまい)の芸術によって救われたという意味であり、日本民族の歴史に占める比重の大きさを示唆する。 ここにおける理想的人間は「明(あか)き浄(きよ)き直(なお)きこころ」(宣命)という内面の曇りの無いことに結晶し、罪はみそぎと祓いとによって水の果て、風の果てに消散されるとする宗教的呪術的心情には美と清さとがなんらかの形において一致するという美学的思考が胎生している。
日本において美学的思考が初めて意識的に理論化されたのは、『古今和歌集』「仮名序」においてである。 紀貫之は「仮名序」で、和歌は純粋な心の結実であるとした(「やまと歌はひとつ心を種としてよろずの言の葉とぞなれりける」)。 そして和歌は天地開闢の時から出来したと述べ、和歌に結集する芸術は、「生きとし生けるもの」の生の表現がヒトにおいてその精華を開花させたものであるとした。
この歌論が芸術批評、創作指標として理論化されたのは、藤原公任の『新撰髄脳』、『和歌九品』以降においてであり、後者の9分法は仏教における九品蓮台によると思われるが、基本的には中国代の画論における品等論の影響が推定される。
藤原公任によって最高の歌格とされた「あまりの心」は、藤原俊成壬生忠岑、そして鴨長明によって「余情(よせい)」として深度化され、幽玄と関係づけられた。
そのころ歌風は、「たけ」、「長高様」(崇高あるいは壮美)、「をかし」(趣向の面白さに由来する美)など、美的カテゴリーの細分化がおこなわれ、「和歌十体」として体系化された。
藤原定家は、「むかし貫之歌のたくみにたけおよびがたくことばづよくすがたおもしろき様をこのみて余情妖艶の体をよまず」(『近代秀歌』)として、「あはれ」(優美)の範疇を開拓した。
藤原定家によって重んじられた幽玄様、右心体の趣を的思想で深めた正徹は、「いかなる事を幽玄体と申すべきやらむこれぞ幽玄体とてさだかに詞にも心にも思ふ斗りいふべきにはあらぬ也」と、名状しがたい悟入の境地と芸術の奥義とが照応していることを指摘した(『正徹物語』)。
ここから芸道の精神が生まれ、演劇論としては、能の世阿弥の『花鏡』の「動十分心動七分身」(心を十分に動かして身を七分目に動かせ)という余情演技、「せぬが所が面白き」という「為手(して)の秘する所」を中心とする能の幽玄論の「かたちなき姿」を尊重する秘伝につながる。
これは、技法上の修練が必要であることに理解を示したうえでの、俳人の松尾芭蕉による、「俳諧は三尺の童にさせよ初心の句こそたのもしけれ」(『三冊子』)という、「気」の芸術の主張につながる。 この内面的な自発性は、『笈の小文』によれば、西行の和歌、宗祇の連歌、雪舟の絵、千利休の茶を貫く風雅の精神である。
このことを別の側面から保証するように、文人画家の池大雅は、絵画でいかなることが困難であるかと質問されて、「ただ紙上に一物もなきところこそなしがたし」と答えたという(桑山玉洲『絵事鄙言』)。
この気の芸術の神秘主義は、宇宙的生命の自己表現から出発する日本の美学思想に起源するが、たぶんに、中国思想、仏教思想の影響がある。
一方、これに対して、純粋な日本的精神による美学を主張したのは国学者の本居宣長である。 本居宣長(『石上私淑言』)は、「事にふれてそのうれしくかなしき事の心をわきまへしるを物のあはれを知るといふ也」と述べて、事象と自我との接触としての経験において事象の本質を認識したうえで成立する感動を、「物のあわれ」と規定した。 そして、これを知る人を「心ある人といひ知らぬを心なき人といふ也」(同上)として、すなわち「もののあわれ」を知ることが人間が人間たるゆえんであるとした。 しかるに、「なべて心に深く感ずる事は人にいひきかせてはやみがたき物」(同上)であるのだから、感動の表現は人間的な必然となる。 その表現手段の粋は、「鳥虫に至るまでも(中略)おのれおのれが歌謡をなすものを人間として一向詠む事あたはざるは恥ずべきことのはなはだしきにあらずや」(『あしわけおぶね』)というように、和歌である。 かくして本居宣長においては、感覚的経験、認識、感動、表現欲求、そして芸術制作という、創造をめぐる美的経験の構造分析が行なわれている。 本居宣長はまた、「歌の本体政治をたすくるためにもあらず身をおさむる為にもあらずただ心に思ふ事をいふより外なし」(同上)として、儒教の教えとは鋭く対立し、芸術の自律性の主張した点においても、近代精神を先取する側面があった。
このように美と芸術を重視する思想的伝統があるために、西洋美学の摂取も成功したのであり、西周中江兆民森鴎外高山樗牛以後においては、東洋の伝統に立ち茶道における老荘の美学的世界観を主張した岡倉覚三の『茶の本』、および西洋美学の方法で歌論を研究してその側面から範疇論を補足した大西克礼の『幽玄とあはれ』は注目すべきである。
自然に恵まれた日本では、四季折々に美しい草木が見られます。春の芽生え、夏の繁茂、秋の彩り、冬の枯枝…これらは草木が生きているからこそ現れるものです。

池坊では草木の命が作り出す姿を美しさの根源とし、そこには「和」があると考えます。つまり、草木の命が日々太陽や雨や風などに出会い、新たな姿へ変化することが「和」なのです。

虫食い葉・先枯れの葉・枯枝までも、みずみずしい若葉や色鮮やかな花と同じ草木の命の姿ととらえ、美を見出すことが池坊の花をいける心であり、理念です。
こうした池坊の理念は、室町時代後期に池坊専応によって確立され、花をいける技とともに今に伝えられています。
【80歳を超えてますます輝くマコトピア。マコトピアの住人をマコトピアンと呼ぶらしいです。美麗なお姫様イラスト、真琴先生のインタビューなどただでさえ読み応えあるのですが、しかも着彩されているのが薄いケント紙ですよ。
古代から人々が追い求めて来た「美とは何か」…という最大の疑問が如何にして発展し、そして変遷し続けたのかという事を解説した著作、「アリストテレスー芸術と真理」「トマス・アクィナスー制作と創造」「ヤングー模倣と独創性」「カントー自然と芸術」等など。
「寝椅子のイデア」「模倣と芸術」「美しい技術=芸術」等のテーマについては実に明快に解説している。
多少なりとも「西洋美学と思想」に関心がある方であれば、本書が大いに役立ってくれるであろう事は間違いない。
雁屋崎氏の提唱する生き方を実践する、というよりは、彼の生き方を自分自身の生活に取り入れてみたり、または逆に、著者とも他の人間とも違う、ほかならぬ自分自身のライフスタイルを少しずつ確立させていく、ということをしてみる、きっかけになる本ではないかと思った。
残酷と言われるようなシーンや、それをほのめかすような映像を用い、スローモーションを効果的に使った。
このドキュメンタリーで、動くペキンパーを見ることが出来るが、「アメリカの男」の象徴のような、ボーグナイン、マーヴィン、コバーンらの貴重な証言が聞けるのも嬉しい。インタビューに応じる俳優陣も、男臭い。
口が悪く、要領も悪い。だが、異常なまでの熱量を持った映画を作り、俳優陣、映画ファンを熱狂させた。
映画会社からは嫌われたが、サム・ペキンパーの作品に影響を受けた映画人は少なくないと思う。
アメリカ映画史の中でペキンパーを語るとき、カテゴライズされるのは、西部劇でもなく、アメリカン・ニュー・シネマでもなく、「サム・ペキンパー」であるべきだと思う。
もしくは、「アウトロー」の第一人者だろう。この異色の監督が作った作品を、厳格な父親が観た時、ペキンパーの育った環境を忠実に表現していた点を指摘し、大喜びしたというエピソードを
聞いて、頑固者のペキンパーの魂は死ぬまで変わらなかった。」
西洋美学の深い理解に基づき、美学として失ってはならない大切なものをよみがえらせようとしている。なぜなら、最近の美学者は古典の訓詁学で自己完結してしまっているからだ。美学者は、東大出身者でありながら東大の外で活躍している人びとが、極めて大切な研究業績を残している。木幡順三氏然り。細井雄介氏然り。そして青山氏然り。プラトンそしてアリストテレスに立ち返りながら、ライプニッツを参照しつつ、独自の美学を打ち立てようとしている青山氏の姿勢からは、20世紀後半以降の美学を混迷から救出しようとする志を感じる。さらに、1950年代以降のフランス系の社会学・文化人類学・心理学などの思想家らによって提示されている怪しげな芸術理論への痛烈な反論ともなっているものである。
やたらとダラダラ長いドラマ仕立てにはなっておらず、ほどよく短めでつなぎとしての良いアクセントにもなってます。只野仁ファン、並びに演じている高橋克典さんのファンには聞いてるだけで楽しい「音の美学」といえるでしょう。
あくまで作者の美意識に貫かれてる。
かなり偏った価値観だが軽やかな語り口調で人を魅了する。エッセイストとしては大したものだと思う。  
これから絵を学ぶ人に参考になるかは疑問。
一番読んで欲しいなと思うのは消費社会と消費に関しての部分。
特に消費に関してはなぜ消費というものに人は見せられるのか?
という根本に迫っているので興味深いものがあります。そして今問題になっているある「媒体」が
いかにその消費という心理を巧みについているかが読んで欲しいところです。
「美学」とは一体何だろう…そんな疑問を抱いた方達が最初に手に取るべき一冊。
何故なら、“美学”の歴史や哲学者達の思考を解り易く紹介した本書は、改めて「美学とはどのような学問か」という問いに答えてくれるからである。
さて、この世に“美学”が登場したのは、明確に「1735年」だと答える事が出来ると言う。
即ち、この年にドイツの哲学者・バウムガルテンが自らの著作の中で「美学」という言葉を使用したのが最初なのだ。
だが、著者は言う…“美学”という名前が登場する以前には、果たして“美学”は存在しなかったのだろうか…と。
勿論、答えは否。
実は、この「美について思索する」事は古くから行われて来たのであり、本書はその長い歴史を紐解きながら古代から現代に至るまでを順序立てて追っているのだ。

それでは一体、嘗ての人々は如何に“美”を捉え、その思考は如何に変遷したのだろうか…本書は、恐らく最初に「美なるものとは何か?」と問うたプラトンに始まり、所謂“美学誕生以前”を取り上げた上で、“美学登場”の時代へと突入する。
バウムガルテン、カント、ヘーゲル、ショーペンハウアー、ニーチェ、ハイデッガー、ベンヤミン等、主たる哲学者を個別に紹介し、時代の価値観や概念にも言及しながら彼等の思索の原点を分析しているので「美学史」のお浚いとしても有用であろう。
特に、カントについては、彼が「美学」という言葉を殆ど使わずに「美的」という形容詞に着目した事、「“美的経験”を表明する“趣味判断”」こそが「カント美学」である事、更にはバウムガルテンやヒュームとの違いを明確に指摘している所は具体的で解り易い。
芸術学を学ぼうという方は、必ずやカントの『判断力批判』を読む機会があるであろうから、参考にすると良い。
また、現代の動向についてかなりの頁を割いている所も特筆に価する。
本書では美術が多様化し、もはや“美”とは何かを定義付け出来なくなった現代芸術に着目し、アクション・ペインティングやコラージュ、レディ・メイド…更には現代のデジタル画像やヴァーチャル・リアリティの世界についても考えているのだ。
「美学・哲学史」に関する書籍は幾らでもあるが、「未来の美学」にも言及している本書は画期的でもあり、新たな美学への向き合い方を考えさせられたように思う。

第17章ここまでで美とは何か
①美とは希少価値と普遍性とバランスに内在されるもの。
飢餓の時代にはふくよかな女性が美女とされ、飽食の時代にはスレンダーな女性が美女とされます。また、地球が金でできていたら人間は泥を奪い合うだろうとも言われます。希少価値が時代とともに変遷するのに対して、宝石などの変質しにくいものもその普遍性ゆえに美の対象となることもあり得ます。そして造形における黄金比や数学の美と言われるものも美の対象となり得ます。
いづれも共通していえることは、見る者に快い心証を抱かせるものということになるんじゃないでしょうか。
美とは人それぞれに違うものではありますが、俯瞰すると文化的類似性も存在するだろうと思います。要するに、同じコミュニティ内に共通する美の基準は存在するだろうということですね。それは文化的背景が原因だろうと思います。個人の生育過程により、個人固有の美的価値基準は構築されますから、人それぞれに異なる美が存在するわけですが、その生育過程は属する文化風土の影響を受けますから、同じ風土に育つ者は似た美の基準を持つことにもなりやすいわけですね。

②正義は美に集約される場合が多いだろうと思います。正義も美もどちらも肯定されるものです。同じ評価を得るものは同じカテゴリに括られやすいですからね。正義を美しいと見ることは当然あり得ることだろうと思います。
そう考えると、真善美も同カテゴリとして分類されるのも納得がいく話です。本質において、三者が同じというよりも同じ評価を得るものとして同カテゴリに括られると考える方がいいかもしれません。
だから、美≠正義とはいえます、本質において同質ではないということです。世間には俗悪美や、悪の美学というものも存在しますよね。それらが美≠正義の証となるだろうと思います。
おのれの苦しみのために人類は、苦しみを鎮めたり和らげたりすることのない芸術を求める。芸術は人類にたいして、人類の没落という夢を見せるのだが、それは人類を覚醒させ、みずからを律する力をもって生き延びさせるためなのである。」
アドルノ生涯の課題でもあった、モダニズム芸術を批判的に擁護するための論考を中心に、映画論や自伝的エッセイも収録する。遺稿となった『美学理論』を、具体的な芸術実践のありさまから補完する1960年代の論集であり、「規範」「伝統」「文化産業」「芸術社会学」「マネージメント」「機能主義」「バロック」「芸術ジャンルの境界」といった特定の主題に焦点を当てながら、音楽や美術から建築や映画まで、多角的に論じる。
さらに、幼年時代の回想やスケッチ風の旅行記からは、他の著作には表れない哲学者のプライヴェートな側面も窺える。アドルノ晩年の思考のエッセンスであるとともに、アドルノ自身によるアドルノ入門の書ともいえよう。
素敵な大人(森氏の言葉を借りると“ハンサム・ウーマン”)に成長するための“作法”、“心得”、“忘れてはいけないこと”、そんな事柄について美しく、才能に溢れ、そして痛み知っている…本物の大人の女だった著者が優しくアドバイスを与えてくれる。自分の身に生活に、照らし合わせてみて。きっと得るものがあるはず。もっと他の正しい道があるのだ、ということを知ることが出来る筈。
それは著者のこだわり続けた様々な“美学”に貫かれた、得がたい助言から学べることだろう。
1820/21年冬学期のベルリン大学でのヘーゲル美学講義、アッシュベルクとテルボルクの筆記録からの新訳です。自然と人間精神ということを軸に、芸術、美、象徴、愛、抽象と具体、詩歌の韻律やイタリアの音楽の旋律美を例に挙げ、のちのホトー版にも垣間見られる青年ドイツ派としてのヘーゲルの美学観を、眼前で講義を受けているように再現してくれます。
本書は簡潔明快を旨とし、フッサールの現象学的視点を最後まで貫いて、絵画の構造を説明する。ので、丁寧によめば現象学を楽しく理解することができる。特に静物画である「チェス盤のある静物あるいは五感」に対する読解、画家ミロを実例に交えて展開する線に対する考察、茶色に対する言及の箇所がなかなか美学に疎い自分にとってはスリリングであった。
ギュンター・ペルトナーは1942年ウィーンに生まれ、一時期フライブルク大学で学んだ時期を除いて、ずっとウィーン大学で研究生活を送った哲学・美学学者。研究領域は中世哲学(教授資格論文ではトマス・アキナスを扱った)、ハイデガーの存在論、美学、生物学的認識論批判等々幅広い。現在はウィーン大学を定年退職し名誉教授としてゼミナールを開いている。
本書はドイツで『基礎叢書 哲学』シリーズの1冊として、哲学の1部門である美学の入門書として書かれた。それゆえ、本書は2部構成を取っている。第2章から第12章までは、ギリシアのプラトンから中世哲学、バウムガルテン、カントらの近代美学(哲学)、そしてショーペンハウアー、ニーチェを経てアドルノに至る西洋美学史の概説である。そして導入部に当たる第1章と、本書最後の第13、14章では、ハイデガーに負う所が大きいペルトナーの存在論的美学を論じている。
この美学史概説も、著者の問題意識として、美学において「〈美〉とは何か」という主題が、「芸術哲学」となった現代の美学では従属的な役割しか演じなくなった、その歴史を批判的に辿るという視点があるのだが、まず、〈美しいもの〉が現れる(現在する)のは、それを我々が知覚し、認知することによってであり、〈美しいもの〉の〈美〉は我々の感知に先行するのでも後続するのでもなく、われわれが感知するとき、われわれの感知として生起する。つまり、例えば音楽(美しいもの)が音楽(美しいもの)として現れるのは我々が聴くこと(演奏すること、読譜することも広義の聴くことに含まれよう)によってであり、そしてその音楽の〈美〉は我々の中で生起する。
しかし、その〈美しいもの〉は我々なくしては現れないが、我々「によって」現れるものでもない。また〈美〉は我々の感知作用に起因するのではなく、〈美〉自身の根源から我々に己を示すのである。つまり、何かが〈美しい〉のは我々がそれを〈美しい〉と知覚するからでなく、それが〈美しい〉から我々はそれをそうと感じるのである。
従って、我々の美的経験は〈美しいもの〉の〈美〉に対して応答的なものである。しかし、この「応答」とは、〈美しいものとの出会いの経験〉に際して、我々がどれだけその〈美〉を受け入れ、生成・完成させる(本書では「現成(げんじょう)」という仏教用語を用いているが難解なので換言した)かによってその〈美〉がいかに光り輝くかが委ねられているということである。ここで「応答」とは「一致」の意味において、つまり、〈美しいもの〉の声に〈それを経験するもの〉が応答し、この2つのものが一致することにおいて美的経験をなすのである。
我々は常に何かと共に現在に存在する、つまり我々にとって〈世界全体は開かれ〉ており、その世界と共に我々は共―現在しているのである。〈美〉が現れることによって、通常は隠蔽されていたこの〈世界の開かれ〉が姿を現し、ただ〈現在している〉(現在あるように存在している)ものだけが見えていた世界において、〈明瞭に共―現在していること〉に我々の認識が至る、つまり我々が単独で現在に存在しているのではなく、他者、〈世界〉と共にあることが開けてくるのである。
我々が何かあるものについて〈美しい〉と口にするとき、我々が本当に考えているのは〈経験されていること〉自身である。この〈経験されていること〉自身が〈美しい〉のであって、それに付随するものが〈美しい〉のではない。例えば、愛の〈美〉は、愛を経験している者に愛がもたらす効果ではまったくなく、愛が経験されること自身が〈美しい〉のである。〈美しいもの〉が美しくあることは、その〈美しいもの〉の驚くべき顕現のうちに在る。
〈美〉の経験は1つの顕現を経験することである。存在すること(美しいものがあること)と現象すること(美しいものが美しく現れること)が根源的に一体であることが、存在の真理が〈美しい現れ〉のうちで実現することなのである。
〈美しいものとの根源的な出会いの経験〉は我々には予知できぬ、制御できぬものであり、その〈出会いの経験〉は我々を襲う。そしてこの襲われた出会いに〈驚く〉ことにおいて、現象することそのもの、存在自身が際立って現れる。そして驚く者は存在の事実に感動している。何が彼を驚かせるのか、それはこうしたことが「ある」ことなのだ。〈美〉に直面して驚く――それは存在が存在するということの奇蹟に寄せる感動である。
この〈美しいものとの根源的な出会いの経験〉は我々に感謝の念を生む。この経験は〈美しいもの〉を経験する機会を我々がもちうること、さらには、そもそも我々が現存在する(生きている)ことが可能であることに対する感謝の念である。存在することが可能であるということは〈美しい〉。〈美〉は〈現存在しうること〉に、つまり、そもそも我々が存在しうることに感謝の念を抱くように我々をうながす。
この感謝の念は特定の誰かに向けられたものではなく、〈存在しうること〉そのものに向けられる。そして〈存在しうること〉は〈与えられてある〉のだということが開示される。
〈美しいものとの根源的な出会いの経験〉は〈存在すること〉について思索するよう迫るのだが、その〈存在すること〉とは〈与えられてあること〉を意味する。このことを悟ったものは、さらに〈感謝することができること〉に感謝することができる。
以上、ペルトナーの存在論的美学を概説したが、ここでペルトナーが明言していない視点について論じてみたい。我々の存在が〈与えられてあること〉の、その〈与える〉という能動態の主体は何ものなのか。プラトンから近代までならばそれは「神」であっただろうし、ショーペンハウアー・ニーチェではそれは「自己自身」であっただろう。しかし、ペルトナーにおいては、その主体はそれらではありえない。
(上記の概説の通り)ペルトナーにおいては我々は〈開かれた世界〉において〈共―現在している〉のであり、〈美しいもの〉〈美〉もまた、それ単独で存在し現れるのではなく、我々と共にあり、我々によって完成されるものであるのだから、我々も、〈美しいもの〉とその〈美〉も、それが存在しうることはただそれら単独の自己自身によるものではない。
美的経験が応答的であるが「一致的」であることと同じく、〈与える〉主体と〈与えられてある〉客体は一致的なものとして、我々の存在が〈与えられてあること〉は開示され、そのことは単独の存在ではなく開かれた世界に依る〈共―現在的〉存在である我々と、我々と共にあり、我々と一致する世界によって生成・完成(現成)されるのである。
近年日本においても(特にポピュラー音楽学において)芸術の社会学的研究や分析美学が急速に普及しつつあるが、そのような潮流に1石を投じるものとして本書とペルトナーの美学は有意義な思索体験、美学的視座を与えてくれるだろう。

 最初にファイロ・ヴァンスの事を書いたのは、この本の探偵役「黒猫」が、ファイロ・ヴァンスに負けず劣らずのペダンティックな言葉をまき散らすからなのです。なにしろ「黒猫」は弱冠24才の「美学」を駆使する大学教授。普段の付き人との会話でも「僕がここで言うカタルシスはプラトン的なものではなくてアリストテレス的なもので、アリストテレスは負の感情を浄化する点で悲劇にこの効用があるといっている」と。
著者の亀井民治氏が鍵山氏の考え方や行動を手に取るように書いてくれています。
縁がある人を喜ばせるためにや困った時こそ温かい手を差し伸べる
凡時徹底、ひとつだけ拾えばひとつだけきれいなるなど
眼からウロコが落ちる言葉も魂が込められているようです。
自分だけの利益ばかり考える風潮の今の日本
心のあり方きれいな心になるにはきれいな環境、そうじが必要である。
「韓国の反独裁民主化運動と呼応して生まれた美術運動であり、独裁政権の継続および急速な産業化・社会構造の変化によって顕在化した政治的抑圧と社会的矛盾を、「歴史の主体は民衆である」という立場から表現しようとしたリアリズム美術である。」いっときの日本のプロレタリア美術運動と似ているが、やはりいろいろ違う。何よりも韓国における認知度と広がりが違う。
日本での通称「従軍慰安婦像」、「平和の少女像」(2011金運成・金ソギョン)は、そのひとつの成果だ。その後、少女像は60以上の地域・世界で建立され、100あまりの高校で建立運動があるという。もはや、日本政府やマスコミがいくらひとつの少女像を「否定」しても、万が一居なくなっても、それは燎原の火のように更に広がるだろう。それでも力づくで破壊しようとしている。「愚か」としか言いようがない。例えば、マスコミは一つの少女像を持ち込んで日韓両国でシンポジウムを開いただろうか。少女像を直に観たことのない日本人がほとんどのこの国で、いったい何を論評しようとしているのだろう。

1960年李承晩を退陣に追い込んだ4.19学生革命は朴正熙によるクーデターで潰えて、長い雌伏の秋を迎える。その時にデモや集会の場に現れたのは仮面劇である。言葉がわからなくても、性的な仕草が多くの民衆をよく笑わせ、だいたいの筋だけは分かった。牛が勢いよく暴走し、青年は横暴な地主や領主を風刺的に懲らしめているのだと言った。60ー70年代に、権力に抵抗する仮面劇などの民俗文化復興運動やその版画が広まる。そして80年に光州民衆抗争(韓国では光州事件とは言わない)が起こる。洪成潭(ホン・ソンダム)の「五月連作版画」は、そのひとつの成果だ。そこから87年の六月抗争に至るまで、様々な文化運動が繰り広げられ、民衆美術は大いに盛り上がる。例えば87年ソウル市庁前広場だけで100万人集まった李韓烈君の追悼行列の先頭には崔民花「君よ、あけたままの目で」という掛け絵・垂れ幕絵(コルゲ・クリム)が掲げられている。この頃は漫画も強力な民衆美術の一翼を担っていたらしい。

現代の課題でもある論争の一つとして、政治主義か文化主義か、というのがあるらしい。宣伝物を作るのが第一義的な美術の機能だと主張する組織もある。韓国の救いは党派性が無いことだろう。日本はそれがあったので、却って萎んでしまった。

韓国には、コルゲ・クリム以外にも巫女図や旗絵、民画(無名人の絵)、壁画・壁絵(現代いろんな所に観られる。写実に囚われず事物の本質に迫ろうとする大胆な省略や圧縮、何処か無造作だが風情のある朝鮮独自の無技巧の技巧、現代民衆の生と希求を描いた。メキシコ壁画運動の影響もある。代表例ソウル慶熙大学「青年」、光州全南大学「光州民衆抗争図」が復元された)、イギヤ・クリム(絵本)・トゥルマギ・クリム(巻物絵)などがある。この本は民衆美術を通して、図らずも韓国民主化運動の歴史をも説明している。
『アントニオ・ダス・モルテス』は日本公開時に多くの映画人や演劇人に衝撃を与えたが(若松孝二の『性賊』はその一例)シネマ・ノーヴォの全貌は近年まで謎のまま放置されてきた。なので、この本は正に待望の一冊、である。この本を読めば『乾いた人生』で悪夢の域に達するほどのリアリズムを達成させたドス・サントスがなぜ異形のアクション映画『オグンのお守り』や痛快きわまりないセルタネージャ歌謡映画『人生の道』を作ることができたのか?、『アントニオ・ダス・モルテス』への40年越しのアンサーなのかもしれないハイレ・ゲリマの『テザ 慟哭の大地』のメッセージは何か?などなどが判る、かもしれない。
尊敬する寺井則彦氏の渾身の一冊です。
見ているだけでうっとりするケーク達の作り方が
余す所なく公開されています。そばにおいて
自分の菓子作りの指針となるような本です。
 「つまらないこと、お言いでない。人間、学校の勉強さえできれば、それでいいってわけじゃないだろ。初ちゃんは算術は下手かも知れないけれど、小さい弟たちの面倒をよくみるし、ご飯の支度だってお前よりずっと上手だよ。人それぞれ、みんな、どこかいいところがあるんだからね。先生にちょっとほめられたくらいで、特別だなんて、いい気になるんじゃないよ、みっともない」 「…大臣になったとこで人間を捨てたんじゃ。利口ではあるが、人間を捨ててどうなるいや。本だけ読んだり書いたりしたって、修養ができにゃ泡じゃが。…」
人は年齢ではなく、生き方でどんなにも変われるのだと思いました。
晩年の美学響きが素敵です。楽しんでこの先を積み重ねて生きたいです。
著者・澤村修治氏の 滅びの美学 は、南州虹滅(こうめつ)を、必滅の運命に立たされた
ひとりのサムライが草莽の志士として、幕末維新に生きた雄姿を一貫した視点でとらえ
ているのだ。
第三章 西郷と陽明学で紹介された春日潜菴と陽明学との関係については、非常に興味
深い。禁門の変で生死を分けた長州藩・久坂玄瑞が陽明学に学んだことにも触れている。
大騒乱の維新の時代に、志士たちの行動規範となっていたのだ。
第四章 任侠武士の恋歌 で紹介された、横山安武碑文が印象に残った。為政者に高い
倫理性を求め、維新の犠牲者に対する最大の敬意を払う、西郷の一片の誠心が見事に
描写されている。
   「一燈を提げて、暗夜を行く。暗夜を憂ふる勿れ、ただ一燈を頼め。」

戦争と映画の章、爆弾三銃士と亀井文夫の闘う兵隊、木下恵介の二十四の瞳、爆弾三銃士の「美談」は知っていたが、空閑少佐と自決美談は知らなかった。

第18章美とはのまとめ

「美しい」と感じることは非常に主観的であり、美はあまり科学的に語られませんが、近年になって「脳」と「芸術」の関係を研究する「神経美学」という学問が登場しています。

美や美に類する価値を経験することが「美的経験」です。人は美しいものを好み、美しいものから喜びを得られるため、多くの人は美的経験を楽しいものだと考えています。しかし、喜びは好きな人が隣にいたり、おいしい食事を食べたりすることからも得られますが、これらが美的経験であるとは言えません。

つまり、美的経験は喜びでありながら、食欲や功利的な衝動を引き起こさないものと言えます。上記のような感動は確かに素晴らしい経験ではありますが、欲望を伴っているため「美的経験」ではないのです。目的とはアートそのものにあります。対象物に没入すること、アートにそれ以上の目的はありません。「美的経験はアート作品だけではなく、自然のものからも得られますし、多くの人は美的経験を持っていると思います」とチャタジー氏。ある人が美しい庭に完璧に魅せられること、少なくともそれは美的経験の定義の1つと言えます。
人間の欲求が満たされた時、その個体に快の感覚をもたらすのが報酬系ですが、報酬系において重要なネットワークが存在するのが線条体や前頭皮質、扁桃体島皮質といった部位です。

ミシガン大学のケント・ベリッジという神経科学者は、これらの部位にwanting(欲する)とliking(好む)という2つのシステムがあると発表しています。我々は基本的に自分が好むものを欲しがり、欲しいものを好むため、wantingとlikingという2つのシステムは互いに関係しながら働いています。しかし、wantingシステムとlikingシステムは似て非なるもの。例えばwantingシステムはドーパミンに駆り立てられます。ドーパミン不足は手足の動きを小さくするパーキンソン病を生じさせますが、それだけでなく欲望や学習意欲を小さくさせることもあります。一方でlikingシステムは純粋な快楽経験とひもづけられたもの。大麻に含まれるカンナビノイドや オピオイドを摂取するとハイになりますが、これはlikingシステムの強力バージョンです。

我々の経験の多くにwantingシステムとlikingシステムが関わりますが、これらは別個のものなので、例えば麻薬の依存患者が麻薬をやめたいにも関わらず欲するような、「好まないけれど欲しい」という状態も生まれます。美的経験とは麻薬の例とは逆で「好むけれど欲しがらない」という状態が起こっているのです。

この点に関しては、ニューヨーク大学の研究チームが美的経験の測定を行いました。研究チームは被験者らにさまざまな絵画を見せながら脳をスキャンし、どの絵がどれだけ好きかを4~5段階で評価してもらいました。この研究のポイントは、例え5段階で評価する場合であっても、「好き」が最高値になった時、脳の中ではそれまでとは違う出来事が起こっていたということ。経験の中に没入し、脳がデフォルトモードネットワークの状態になっていたのです。

デフォルトモードネットワークとは、休止中の脳で起きている活動状態のこと。外側の世界で起こったことに反応している時は活動が小さくなり、内側世界に没入している時に活発化します。ニューヨーク大学の研究チームは研究結果について「アートを経験する喜びは段階的に増えていきますが、ある一線で経験が質的に変化し、何かが起こります。外部世界の刺激が人々を内なる世界へと没入させるトリガーとなり、デフォルトモードネットワークの状態を引き起こすのです」と推察しています。

つまり、外部の世界のものである美術や芸術作品がトリガーとなり、人が内側世界に没入して「デフォルトモードネットワーク」の状態になることで、科学的にも「超越的な経験」を測定することができるのです。

「脳は美をどう感じるのか」ということを研究する新しい学術分野「神経美学」は2002年ごろから始まりましたが、神経美学は美的経験が一体何であるかを理解する助けになります。神経美学の分野にいる人々が主張しているのが、脳には「感覚運動回路」「感情と報酬の回路」「意味と概念の回路」があり、この3つが美的経験を作っているということです。

科学的認識と感覚的認識の相違から生まれた美学は科学的な見地から「18世紀に作られたものであり、概念的な現代アートは含まれない」と批判されることがあるのですが、もし脳における3つの回路が美的経験を作っているのだとすれば、既存の芸術とは形態の異なり概念的なコンセプチュアル・アートに対しても美学の科学的アプローチが可能。神経美学の考えに基づけば、美的経験は作品に関する知識を背景とした「概念的な情報」と「感情のリアクション」によって生じるためです。

一方で、知識がなくても美的経験を行うことはできます。「少なくとも私にとって概念的なもの排除したアートの1つにアボリジニたちの作品がある」と語るチャタジー氏は、アボリジニの作品を目にした時、もちろん嬉しく思ったのですが、絵に含まれる概念や文化的な背景は分からなかったそうです。しかし、概念的な情報がなくても美的経験を得ることができたとのこと。

例えば今この瞬間に食料品店の棚に置いてある「しびん」にしかるべき背景を与えて「アートだ」と認めるのは、非常に難しいです。しかし、これまでアートの性質は何度も変わり、それに伴って我々の反応も変化してきました。ゴッホを初めとする印象派の人々は、始め芸術アカデミーの人々から評価されず、それどころか大きな批判を受けていました。しかし、この150年で我々の脳はそう変化していないにも関わらず、現在、印象派は最も人気のある作品の1つとなっています。

アートの認識に関しては、デンマークである興味深い実験が行われています。一方のグループには、ある抽象画を「コンピューターで描いた」と言って見せ、もう一方のグループには同じ絵を「ギャラリーに飾られている」と伝えて見せたときの反応を調査。つまり、「モノ」は全く同じで「背景」だけ変えたわけですが、脳の反応を調べた結果、「ギャラリーに飾られていた」と聞いて絵を見せられた人々は、脳のうち人が喜びを感じた時に活発化する部分が反応していたそうです。

アメリカの心理学者グレーアム・ウォーラス氏は創造的なアイデアを発想する際の思考プロセスには「準備期」「あたため期」「ひらめき期」「検証期」の4つの段階あると主張しました。つまり、創造的であるためには、まず基本的な技能や要素を準備する必要があります。そして準備期の後に問題の解決に取りかかるわけですが、すぐさま答えが出るのではなく、一見アイデアが浮かんでいなくても無意識下で物事が進む「あたため期」を経ます。そして分析や理解が進んでいくと、突然アイデアが思い浮かぶ、いわゆる「アハ体験」が発生。最後にアイデアを推敲する検証期に入るわけです。

上記のような4段階の思考プロセスを信じている人は多くいますが、実際に4段階プロセスが連続して起こるかどうかは議論のあるところ。しかし、神経学の観点から見ても何かが起こって魔法のようにアイデアが生まれる瞬間は存在します。例えば上記の思考プロセスが起こっている時、側頭皮質が活発化します。また脳波を使った研究では、人が解決策を生み出す瞬間、目を閉じているにも関わらず、人の視覚をつかさどる後頭葉がまるで知覚情報を得た時のように活動するという結果が出たとのこと。
物事の解決に向けて段階的に取り組む「解析アプローチ」という方法が存在しますが、我々がクリエイティブと考えるものは、解析アプローチとは異なり、問題を新しい目で見る方法です。そしてクリエイティブなアプローチにおいては「何もしない時間」が非常に重要で、アイデアが浮かんでくる瞬間は多くの場合、眠る寸前や起き抜けなど、少し意識がぼうっとした時に起こるとのこと。

チャタジー氏が懸念しているのは、子どもたちが「何もしない時間」を持たないことです。最近の子どもたちは細かくスケジュールを決められ、自分の時間が授業や習い事などタスクで埋め尽くされています。もちろん子どもたちだけでなく、大人にも同じことが言えます。今、我々の多くは「何もしない時間」を許さないクリエイティビティに動かされています。しかし、「クリエイティビティでいることには長期的な目を持つことも重要」だとチャタジー氏は語りました。
本書は、ベストセラー『清貧の思想』の著者の心に残った「いい話」を集めたものです。京大教授を辞したのちは故郷に帰り、老父に仕えながら農に生きた小島祐馬、暗殺の危険をかえりみず国会で堂々と軍部批判の正論を吐いた斎藤隆夫など、高潔、廉恥、道義、無私、使命、理想、徳など、いまや死語と化したかに見える言葉のままに生きた人々のかたちを伝えます。


第19章美に客観はあるか

経験と問題意識の中で、「心を動かす」ものが「美」。「すがたかたちの美しさも当然、人の心を動かします。美しいな、好きだな、というのも『情』です。でも、人の心が動くのって、それだけではないですよね。長い年月いっしょにいる夫婦は、いくら憎み合っていても、第三者が下すのと比べて、相手を高く評価する傾向があるんだそうです。それはつまり、そこに『情』があって、それで相手が美しく見えている、ということなんです。もしそれが本当なら、「美しさ」は、客観的なものではないのだろう。「自分は客観的に評価している」と感じている。あるいは「自分は単なる主観で彼女を好きなのだ」と自覚していたとしても、その主観には「ある程度以上に、普遍性がある」と考えていることが多いように思う。しかしそれは間違っている。なぜなら、現実には、「誰が見てもこのように見える」という顔は、ないからだ。美醜に、「客観」は、ないのだ。


アリストテレスまでは絵画と哲学との関係がそんなものかと読んでいて思いましたが、神話型の絵画は近代的自我になると幅越えしてしまっているのではないかと思います。当時の思想と近代以降の思想はちょっと相いれないところがあって絵画の解説には違和感が出てきました。絵画と近代的自我の強引な当てはめのような気が。とりあえず神っていう都合の良い物語を欲していた当時の人達の需要をとらえたのが神話型絵画なのかな


芸術に優劣はあるのか。主観的にいえば芸術に優劣はないと思いますが、客観的にみれば優劣はあると思います。
芸術の優劣は後世への影響力で決まると思います。音楽や文学、美術といった芸術には優劣はないという人は多いとおもいますが、それは個々人の話で、客観的にみると優劣は存在すると思います。
主観的にみていい悪いと思うのは別に普通のことだし、それはそれでいいと思うし、当たり前のことだと思います。でも絶対的な価値ではないのだと思います。客観的な優劣といっても、芸術に感動するのはあくまで人であって、主観的感動の総体であると言えると思います。主観的な感動から客観的な優劣を導きだすのが、社会でありコミュニケーションであると思います。こうやって社会的な評価を与えるおかげで、地球の裏側の何世紀も前の美術に触れることができるのだと思います。芸術の優劣は誰かの主観的な感動(それも強烈な)で決まります。誰かの主観的な感動は、それが強烈に、なるほど、普遍的になるものです。つまりそういうものは他の誰かにも感動を与えます。だけどすべての人が感動するわけではありません。あんまり言葉で考えるとややこしいですが、芸術に優劣があることは当たり前のこと。ただ前提となる社会が多次元化してしまってる。
短編エッセイなので読みやすい。 「一億総中流意識」と言われ、景気は上がるものだと思っていたので、頑張ればこういう生活を手に入れることができるかも? 時は過ぎ、彼女のような華やかな生活をもはや望んでいないことに気づきます。 あの上昇志向は若さだったのか?時代だったのか?

過去の平和的なアメリカ映画に対し、反抗的な姿勢を示して爆発力を見せたアメリカン・ニュー・シネマという、若い映画運動の中に、ペキンパーが含まれるかどうかは、意見の分かれるところだ。
しかし、どちらにしても、ペキンパー自身がアメリカン・ニュー・シネマの時代には、若者というより中堅からベテランの域に達しており、その点は、アメリカン・ニュー・シネマを代表する若手を起用した「イージー・ライダー」のような作品と、ペキンパーの「ワイルド・バンチ」の違いとして大きいと思う。ペキンパーの育った環境を忠実に表現していた点を指摘し、大喜びしたというエピソードを聞いて感動。

第20章モネの良さ
癒やし感が全てなのですが、それ以上の多くの事を教えてくれるのがモネの絵です。その絵から受ける感動とは別物でしょうね、そんな気がします。たとえモネの睡蓮と同じ池を造ったとて絵から放つ感動の再現は出来ない事でしょう。なぜなら、モネの風景はその時の印象の瞬間を描いたもので、物理的に既にその瞬間は存在しないから・・・なんて話ではなく、その感動はカンバスの中に創り出したモネのリアルで、完全に独立した風景だと思うからです。クロード・モネという人間の感性を私達は観ているわけです。絵画とは自分の感性をカンバスに映し出すものだと教えてくれているように思います。感動のうちに素早く描ききる、それが心象のリアルということで、素早さは印象派の真骨頂でも有るでしょう。素早く描く、それはサイズの小さいカンバスを用いて描くのが理想であると思えます。でも、後年のモネの絵に大作が出現してきます。必然的にタイムラグが現れ、変化する時間によってずれた光と影が、不自然に散りばめられた絵になるだろう、だけど絵の中に時間という概念をも描きこむならばそれが実にリアルで有り、そして、当然、心の変化も絵に反映されていくはずです。時間による光と心の変化をリアルに写し取っていく、まさにキュビズムです。モネにキュビズムという考え方があったか解りませんし、キュビズムで有名なピカソとかブラックとの接点もあったのかも解らないのですが、晩年の作品となると、完全に抽象画です。やはりモネはピカソのキュビズムとは異なるラインで究極のリアルを求め、挑戦し続けていたという思いは深いですね。眼が悪くなったからあの絵なのだとも言われそうですが、気に入らない絵は破棄していたとも訊きますから、それは無いでしょう。そして晩年の絵はある画像に導き、キュビズムはピカソやブラック達の発明ではなく、発見なのだということを気付かせてくれます。その画像とはハッブル宇宙望遠鏡で集めた宇宙の星雲画像です。星雲画像に散りばめられた星の光はそれぞれ一つ一つ、時間を隔てて届いた星の光の集まりです。超絶のタイムラグ!まさに超絶的キュビズムです。星空を観る事はアインシュタインの言う、現在、過去、未来が同時に存在する時空(キュビズム)を体験すること?


個性とは常に作家本人と関連しています。ものすごく繊細な性格で繊細な線しか描けないなら、それがその人の個性なのです。だから絵画を生みだす時大切なことは、描き方のマニュアルがどうのと言う事ではなく、「あなたは誰なのか?」という事なのです。「あなたは誰なのか?」これが芸術の答えです。ここに明確な答えが出せるかどうかが重要です。ここのない芸術家は永遠な存在にはなれません。セザンヌもカラヴァッジョもミケランジェロもロダンも永遠になっている芸術家は皆明確に「あなたは誰なのか?」の答えを持っていました。ピカソはこう言っています。「画家にとって大切な事は何を描くのか?ではなく、その画家が誰か?という事だ」と。ピカソは芸術の本質を知っていました。そしてファン・ゴッホもその特異な人生を通して「あなたは誰なのか?」の答えを示しています。ファン・ゴッホの絵画、人生、手紙、言葉、行動、全てが彼の芸術そのものです。つまり作家自体がすでに芸術作品なのです。作家は自分の生き様や人生を含めた全体で作品を作る。これをいつも意識しています。そうする事で自分の生きてきた全軌跡が創作に生かすことが出来る。ゴッホはこう言っています。「自らの内に炎を、そして魂を持っていれば、それを火消しツボの中に閉じ込めておく事は出来ない」ゴッホは心の内に燃え盛るような表現欲求を持っていました。ゴッホは押さえようのない情熱を線や形態や色彩に託して、自己の内的な魂を絵画で表現しました。絵具の厚塗りがどうのとか、色彩の対比がどうのなんて事は
枝葉の話です。ファン・ゴッホが美術史に明確に刻み込んだ革新の本質は「自らの魂を絵画に託して強烈に表現した」という事にあります。自らを絵で表すために自由に色彩を使い、形態を変形させ、渦巻くようなタッチで描いた。ここがゴッホの凄い所です!このゴッホの絵画の革新が20世紀美術に影響を与え、表現を変えていったのです。



ピカソの絵は理解できますか? 正直なところ、「意味不明」、「なんであんな訳の分からない絵がそんなに評価されているんだ?」そう思っている方も多いんじゃないでしょうか。ピカソの絵のすごさを感じられるお勧めの方法、名画たちも並んでしまうと、ある意味その素晴らしさが普通になってしまいます。素晴らしい絵画しかないのだから、素晴らしいのは普通と言うことになるわけです。しかし、そんな中で圧倒的な個性を放つのは、ピカソの訳の分からない絵画でした。つまり、彼の絵は普通ではなかったのです。そのことに気が付くと、彼の凄さが少しわかった気がしました。そして、これには価値の本質とはこのことではないかと言う論理的な説明が後からついてきたのです。価値とは? それは初めから決まっている?ここから論理的な解説に入ります。「合理性と非合理性の仮説」です。まず手始めに、絵画の目的を考えてみましょう。そのためには、絵画の歴史を追う必要があります。それを探ってみると、起源としてはアフリカの古代人が、狩猟の方法などを図として描いたことが定説としてあると言うような情報がありましたが、流石に古すぎて正確性がよくわかりません。西洋美術史として出て来るのは、ルネサンス以前の宗教画くらいからでしょうか。アフリカの絵の起源の説が正しいとして、そしてルネッサンス以前の宗教画からして、絵画には描く目的があったことになります。合理性を持っていた絵画、アフリカの絵は、狩猟をうまく行うため。宗教画は布教活動のためと言うことになります。それはその時代の絵画の価値は初めから決められていたと言うことになります。より狩猟がうまく出来る絵、布教がうまく出来る絵、がいい絵ということになります。これは言いかえると、「絵が合理性を持っている」と言うことになります。合理性とは、目的に対して最短で最大の効果を上げようとする性質と定義していますが、より有利に生きるため、と言う目的をこの時代の絵画が備えているということになります。目的は「説教」から「飾り」へ 徐々に高まる「非合理性」更に時代を進めてみましょう。ルネサンス時代を経てロココへ続いていくわけですが、このころになると、絵画の目的は「説教」から「飾り」へと変化したそうです。お金持ちが家で飾るための絵画になったのですね。さて、これは一つ重大な変化です。それはなにか? キーワードはというとやはり「合理性」なのですが、合理度とでも呼びましょうか、説教から飾りへ変化したと言うことは、合理性の度合いが徐々に薄くなり始めていることを表しているのです。
簡単に言うと、絵画がより無駄なものになってきているということです。「無駄」と言うと、言葉は悪いですが、言うならば、「非合理的」になってきている、と言うことです。これは芸術の極致としてしては、非常に重要な要素だと私は考えています。そこから、さらに写実主義~印象派へと進んでいくわけですが、見たままに描く写実主義は絵として、記録として「何かの役に立つ」合理性をまだ備えていると見ることが出来ます。例えば、歴史の教科書で、「この時代はこうでした」と言う説明に使うことが出来ますね。しかし、印象派となると、画家たちの印象にしか過ぎないのですから、それは”嘘”と言うことになります。これははっきり言って、人間が生きていく上で何の役にも立ちません。けなしているのではありません。そう進化したと言うお話です。
そして、とうとう、ピカソまで飛びますが、彼の絵は見るからに合理性がありません。完全に壊れています。これこそが彼の目指したものでしょう。世界最高の天才作家ドストエフスキーが「人間は非合理な存在」と語ったそうですが、ピカソが目指したのは、まさに「非合理な絵」だと言えるのではないでしょうか。それは、決められた絵画の価値、目的からの脱却を図ると言う崇高な試みだったとも言えるかもしれません。
ピカソの名言から探る。誰もが芸術を理解しようとする。ならば、なぜ鳥の声を理解しようとはしないのか。人が、夜や花を、そして自分を取り巻く全てのものを、理解しようとしないで愛せるのはなぜだろうか。なぜか芸術に限って、人は理解したがるのだ。
自然が創造した物には意味がないことをみんな知っています。しかし、人間が造るものにはすべて意味、目的があると思っているものではないでしょうか。だから、理解したがる。ピカソは自然と同様に真に意味、目的のない物を創造しようとしたのかもしれません。コンピューターなんて役に立たない。だって、答を出すだけなんだから。合理性の最たるものが科学だ。コンピューターは目的)に最短でたどり着こうと言う性質の高みです。最新の人工知能もこれです。対して、芸術は答えのない無限の価値を持った非合理性なのです。芸術作品は、部屋を飾るためにあるのではない。目的を持った時点で合理性が高まり、芸術性が薄れるのです。ピカソは絵画の目的を排除しようとしたのでしょう。ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ。子供の絵とは無意味な「もっとも非合理な絵」ではないでしょうか。ピカソがたどり着いた芸術の極致がまさにそれだったと言う訳です。どちらにしろ、私たちもピカソに習って、目的を捨て子どもの絵のような時間を過ごすということをやってみては、せわしい現代においては、心的に豊かになれるということではないでしょうか。そして、これはある全然違うと思われているものとつながっているのではないか、と思うのですが・・。それはなにか、というと笑いです。ピカソの絵はどこかにおかしみがあるでしょう?

第21章モナリザの美とは
これは、ダヴィンチの絵は、たしかに名品「だった」。








































































































ルネサンス期、さらには17世紀の絵画で、これほどまでに精緻に人物を描き上げた画家は、ダヴィンチを除いてほかにはいない。それはダヴィンチの丹念な自然探求の成果だったともいえる。彼が人体を解剖していろいろ研究していたという話は有名だし、骨格等ときちんと把握しながら描いたものだから、もっとも現実に忠実な作品になるのも至極当然といえる。
だが、その「すさまじいまでのリアリティ」は、あるものの登場によって急激にその地位を奪われることとなる。それは、写真だ。写真の登場によって、モナリザは最新の絵画から一気に古臭い絵画になってしまった。結局いくらリアルに絵を描いたとしても、それは「絵」でしかない。写真はすべてを映す。ここに、このモナリザの限界があったといえる。
もちろん、写真のない時代にこれほどまでのリアルな絵を描きあげるダヴィンチの技量には感服するばかりではあるが、彼の絵も結局、科学技術に打ち勝つことはできなかった。科学を利用して完成度の高い絵を描き、その時代のほかの絵画を大きく突き放したが、逆に科学によって、自らの絵を乗り越えられる結果となってしまった。歴史の皮肉な事実である。私たちはもはや、モナリザ自体を鑑賞しているのではない。モナリザにまつわる記号、つまりその謎めいた出自やエピソードを鑑賞しているのだ。その点、すべての謎が解明されつくさない限り、モナリザは今後も魅力的であり続けるだろう。
日本画と洋画の美学的背景を探り、明治後期の日本で西洋の理想主義がいかに受容されたのかを、近代美術の展開と合わせ検討する。




彼の遺した本を読むと客観的な視点による芸術の意義、人が本当の意味で生きていくために芸術が日常には不可欠だということが本当にわかる。

『今日の芸術』という題名から、1954年の頃のことが書かれていると思ってしまうが、読んでみるとびっくりするくらい現代人が慢性的に抱えている人生の悩み、病のようなものに関わる内容であることがわかる。岡本太郎自身が意図したのかわからないが、この『今日の芸術』という題名は、普遍的な内容であることを表す格好になっている。
その『今日の芸術』より引用させてもらった「生きるよろこび」という副題のついた文章を読んでもらいたい。


生きるよろこび
まことに、芸術っていったい何なのだろう。
素朴な疑問ですが、それはまた、本質をついた問題でもあるのです。
芸術は、ちょうど毎日の食べものと同じように、人間の生命にとって欠くことのできない、絶対的な必要物、むしろ生きることそのものだと思います。
しかし、何かそうでないように扱われている。そこに現代的な錯誤、ゆがみがあり、またそこから今日の生活の空しさ、そしてそれをまた反映した今日の芸術の空虚も出てくるのです。
すべての人が現在、瞬間瞬間の生きがい、自信を持たなければいけない、その喜びが芸術であり、表現されたものが芸術作品なのです。そういう観点から、現代の状況、また芸術の役割を見かえしてみましょう。


この一説では非常に抽象的かつ、漠然としているが、この文章は冒頭部分にあり、彼はこの文章をひも解くように具体的に解説していく。
芸術は受動的ではなく、能動的だ!ということ。しかもそれは、特別な人だけではなく、人それぞれに備わっているべきものである。 例えばスポーツ観戦をし、一喜一憂し、感動している観客がいる。その中で一番光り輝いているのは、選手やコーチ陣たちであるという事実である。観客は自分が能動的になる別のフィールドがあるならよいが、まったく毎日が受動的であったらだめだということである。


つまり、人は人が感動してくれる能動的な自分自身を日常に浸透させることが必要で、その行動自体が芸術と呼べるべきものなのではないだろうか。

  フランスの画家ベルナール・ビュフェは「芸術は花と同じように人生に必要なものだ」と言いましたが、太郎さんの芸術論もそうした<芸術は人生の余技や趣味的なものではなく、もっと人間が人間らしく生きるために必要不可欠な実存的なものだ>という意識に基づいていていると強く感じます。<芸術は太陽のように皆のもの>という言葉にもそれは表れている。この認識は、所謂<人はパンのみにて生きるにあらず>という人間存在への鋭い洞察です。 人生を真に充実させるものは、あってもなくても良いような趣味的な芸術や、型にはまった無難で安穏とした受身の生き方の中には決してないのだと、太郎さんはいつも芸術を通して「危ないぞ!」「眠るな!」「戦うんだ!」と銅鑼を鳴らし、全身で、大声で、訴えてくれます。自分自身を、きびしい主体的闘争の場に置きながら−−。



縄文時代1万年の間に造られた土偶の写真集です。
一方向の写真だけでなく四方360度から撮った写真がふんだんに掲載されています。
ときには足の裏から撮ったものや、レントゲン撮影したものも含まれています。
全70体の土偶に、一つ一つわかりやすいキャッチフレーズをつけて紹介しているのは好感が持てます。
「トルソーのような土偶」とフレーズがつけられています。1万3千年前にこれほどのものをつくりあげた縄文人が我々日本人の祖先であることを誇りに思います。
商業が発展し、神中心から人間中心の世の中になりました。教会ではなく商人も絵などの美術品を依頼するようになり、画家が誕生しました。
ダ・ヴィンチの活躍したフィレンツェでも多くの画家が誕生しました。
またフィレンツェでは、「万能の天才」という人間の存在が求められていました。
画家であり発明家であり科学者であるような万能の人物――。まさしくレオナルド・ダ・ヴィンチのような人間が求められていたのです。

ダ・ヴィンチはまるで実験をするかのように、絵を描き続けました。
そのため彼の作品には「実験が失敗した」と思われるようなものも多数あります。
そのなかの数少ない成功作が「モナ・リザ」です。
それまで画家が画面の中に描いていた「輪郭線」を排除し、ぼかし技法(スフマート)を用いました。
この技法は現在では意識せずに使われるほど、一般的なものです。
また黄金比を用いて、もっとも美しい顔のバランスになっているといわれています。黄金比を用いることが出来たのは彼が数学者でもあったからです。
実はダ・ヴィンチがこんな発言を残しています。
「人物画は顔が命だ。たくさんの美しい顔から上等な部分だけを組み合わせて描くのだ。そのとき一般的な好みで選ぶことが大切だ。人は自分の顔に似たものを選ぶ恐れがあるからだ」
これは失敗して自分と似た顔になったということなのか。
あるいは、自分が美形であったゆえに、人からパーツを抜き取って描いたら自分の顔になってしまったのか。
とにかくこの言葉をそのまま「モナ・リザ」に当てはめると、意図して自分に似せたわけではないということですね。

第22章美とは
美とはなにか?『定義編』
そもそも汚い。醜い。美しいとは何か?定義を作ることにした。
各々の究極的(理想的)な善 





























































































(まず『美』という言葉一つが『愛』と同様で色々な意味で使われており複雑に見えるため、細分化し、一般的な美しいという表現を元に定義付けを行っています。)
ちなみに美のテーマは善悪のテーマとほとんどパラレルです。
善は社会、個人の主観(理念や法・信念)によって変動するというわけです。
その感動する事自体を美とするいわば体感的なものを美であるというような表現をする人もいますが、私の定義でいくとそれは究極の善=美を目の当たりにした事による興奮・感情だと捉えます。)この定義は一体なにを示しているかというと、そうです。 
正しい美の基準などこの世にはない
 と言う事です。
そして、じゃあ誰にとって美醜なのかといえばもうお気づきかと思います。
美の基準?
人、社会により異なり、無数に基準が存在する
またこの定義により、美とは、個々人の理念にそって発生する事がわかります。
人は【理念+目的】からルールを作成しますが、美はそれらに対して、ルールに完全に沿っているものを指します。さらに美醜は、目的・主体などによっても変動し、無数に存在する事となるわけです。美とは外からやってくるものでなく、内側から湧き上がってきた主体にとっての基準と言う事ですね。
このように、美の定義というのは、実は哲学的に突き詰めて(例えば共通の美を探すとか無限にありますし)考える事をしなければ、単純なテーマだとわかりました。
ではなぜ『美』の定義が多少普段わかりづらくなっているのかというと、
世間では美について共通の認識などあるはずもないのにもかかわらず、一定の美が存在すると信じる事に問題があります。 
 そのため、美を科学で説明できるだろうか?などという話になります。正しい美など存在せず、各々が善だと信ずる究極の姿が美だというのに。
美は個々人の理念・目的で形成した善悪基準とともに変動するものなのです。しかもそれが各々の数(人間、社会の数)存在するため、無限に基準が存在し、一概にこれが『美』だという事はできないわけです。
あなたと私の美が共通する事など偶然に過ぎないのです。それはたまたま同じ時代に生まれ同じような環境に育った為に、理念が同じ場合があるからに他なりません。

本書で扱うテーマは「美」。まずは常識から入り、それを哲学してゆくことの可能性を探り、
最後に芸術との関係を考えます。1部は、プラトンを機縁として、イデアールな世界を、現世に映すかがみとしての、美的感覚をとらえ、アスペクト(位相)という多面的なとらえ方を唱えます。その後で機能、目的、こころよさ、形式といった面から美を探究し、仮象(カリスマ)というあらわれに至り、それをとらえる感性と美の固有性に触れ、問い方じたいの発展性にも言及しています。2部は、芸術論となっており、芸術は学問の対象になるかと問うことから始め、次に技術としての芸術や、記号学者バルトによる「作者の死」論、ジャンルあるいは潮流的なものの危殆あるいは無難な相対性に触れている点はむしろ注目であり、美学以外の分野でもいえそうなことでしょう。さらに、言語で思索することから不可避な点、つまり記号の二重性(シニフィアン/シニフィエ)とか意味作用、潤沢なイメージとの関係を検討し、概念との齟齬についても触れています。ついで活版印刷や書(カリグラフィー)、詩や歌など文学作品をも例にとるかたちで、時代などとともに変動する要素をも射程におさめつつ、伝統芸能との渡りをつけ、最後に社会芸術学的新しさなどアクチュアリティーも示唆、とりわけ現代アートと美を関係づけています。かつて桑原武雄による短詩型文学の芸術的意義再考が話題となったり、最近越境作家であるリービ英雄らも独特の万葉論(独自の視点からの英訳つき)をかくなど、従来そうした流れが伏在的にあったと考えてもよさそうですが、本書『ゼロからの美学』で改めて美ということを考えてみると、一般美と固有美に分かれるような感じがし、著者はむしろそうしたことをアスペクトと言い習わし、実在的対象が美という固定観念(ステロタイプ)を生むのではない、という感じもします。
水彩画の技法書としてではなく、エッセイと幾つかの作品集として見るべき書。 あくまで作者の美意識に貫かれてる。かなり偏った価値観だが軽やかな語り口調で人を魅了する。エッセイストとしては大したものだと思う。ら絵を学ぶ人に参考になるかは疑問。
時代にあまりに先駆けて世に出たがゆえに難解書とされてきた『物質と記憶』を、現代諸科学の知見を通して新たに読解する野心的試み。『ベルクソン『物質と記憶』を解剖する――現代知覚理論・時間論・心の哲学との接続』の続編。檜垣立哉、兼本浩祐、バリー・デイントンほか。 
日本画の第1人者としての人気と知名度を誇った横山大観の生み出した数々の作品とその90年の生涯を大型本(ムック)として我々に分かりやすく提示した好著だと言えましょう。
精神的な師として仰いだ岡倉天心が退官させられた時の心境を絵に表した「屈原」は鬼気迫る迫力で伝わってきます。風格もあり、威厳もあり、孤独感も理解できます。実際、美術館で目の当たりにしましたが、明治の日本画としてこれほど明確に描くべきものを主張している作品は見当たらない。
「生々流転」「紅葉」「夜桜」「霊峰飛鶴」「ある日の太平洋」や足立美術館に収められている作品は、本書の価値を上げている要因の一つとも言えましょう。
戦前、日本の国策に協力し、海に因む十題、山に因む十題を作り、「大観号」として国に献納したような一連の行いに対して、戦後批判の声が上がりました。そのあたりの経緯は、大熊俊之氏の解説に詳しく記されています。
ただ、そのような行為があっても、これだけ長い間膨大な作品を描き続けてきた日本画の巨匠への評価は揺らぐことはありません。

23章絵と写真の違い

絵は、人手を介したものなので、見る人は作家の主観が描かれているものと解釈します。
絵では、描かれているものの意味とは別に、民芸・手芸品的な味わいがあります。
写真は人手を介さずに自動的・機械的に絵を作れますが被写体が必要です。
写真は、被写体がないと作れないという制限があること、人手を介さずに機械的・自動的にできあがること、
見る人にそれが現実の証拠であるかのような強い印象を与えます。
絵のひとつの目的で、工芸技でもあるところの、写実的に描写するという工程が、
写真では、機械的・自動的におこなわれ、かつ印刷や複製が簡単で安価なので、
写真には、絵のような工芸品的価値は無いでしょう。


24.いい絵とは
日本に生まれ、周囲の人達、家の形や屋根の色、河や雨の降り方、山や空の色等等小さい頃から目に移るものを何気なく見て育ち、それがこの世界の基準となっているのです。ワビ、サビ、霞掛かったような淡い輪郭、「日本の美」などの本に載っている写真に代表される美の基準を土台としてものづくりをしています。これは日本の小説が日本語で書かれているのと同じです。南米やアフリカの人達は赤や黄、黒など原色を多用したり、ヨーロッパでは空気が乾燥しているせいか、透明感があり、はっきりと立体的に見る傾向があります。
人によっていい絵の基準は違うということがわかりました。それでは次にあなたにとってのいい絵とはどのようなものかということを考えてみましょう。他人の評価はどうであれ、自分にとってはいいという絵は存在するのでしょうか?
好きな人物や場所が描かれている絵。見ていて楽しくなるから当然か。
とにかくすごくうまい。よく描けている(と感じている)絵。どうやって描いたのだろうなんて思うくらい感心する絵。
好きな人が描いた絵。歌手やスター、恋人が描いたもの、持っているだけでもうれしいお宝の絵。
見ていてホッと和む絵というのはどうだろうか。これは自分の性格に合っているため、見ていて疲れない。
元気の出る絵。これは絵からエネルギーをもらえる気がして積極的な気持ちになれる絵。
結論として、自分が好きな絵はどんなものであれいい絵なのです。というのが各人の主観に左右され、一般的な基準などなさそうに見えます。
しかし現実には第三者によって世の中にある絵の評価、価値が決められているようにも見えます。それは一体なぜでしょうか。どんな基準で選ばれているのでしょうか。


▼いい絵かどうか調べる最も単純な方法

いい絵がなぜいい絵とされるのか、詳しく解説するのは非常に難しいことです。また、理由も様々であり、世の中にあるいい絵と呼ばれるものをくまなく説明し尽くすのも不可能です。

そこで、いい絵かどうかを調べる方法として、最も簡単に分かると思われるものを挙げてみます。

 ▲いい絵かどうか簡単に分かる方法
  ①遠くで見ても近くで見ても印象が変わらずはっきりと見える
  ②小さく(切手大)印刷などに縮小しても細部がつぶれずはっきりくっきりわかる
  ③目を細めて(光量を落として)みたり、薄暗くしてみても描いてあるものが浮き上がってみえる
  ④写真にとってモノクロ変換してみてもカラーと同じ印象を与える

これらがひとつの目安となります。




例外はありますが、絵を習ったことがない人による目安として、これでも大体絵の判断ができます。なぜならこれは、内面のこと(構図、配色、筆遣い、そのほか絵画技法など)はひとまず置いており、さらに主観(その絵に描かれてあるものや描いた人が好きとか嫌いとか等)も交えずに絵を見ているからです。これは画期的な方法です。

④の「モノクロにしてみる」は、絵の形や構図が色に惑わされず、よりはっきり浮き上がってきます。今はデジカメのモノクロ機能で簡単になったということもありますので、自分の絵をチェックする方法としてもお勧めします。

抽象画(*)、具象画(*)問わず有名な絵画はこの条件を満たしているものが多いと思われます。いい絵全てがこの4つの条件を満たしているのではないので注意してください。この条件があればいい絵といえる、ということです。(数学的にいえば4つの条件はいい絵であるための十分条件であり必要条件でない。)

*抽象画:アブストラクトアート。見ているそのもの自体を写し描かないで、観念やその共通の属性を抜き出し、幾何学的、又は自由な形式で精神的表現をしている絵
*具象画:具体的にものをとらえ描き写した絵。




▼結局、いい絵とは

本当のところ、「いい絵」は描く人の思いや主題(ねらい)がはっきり出ているとか、独創性、個性があるとか、感動を与える力強さがあります。又、絵の持つ雰囲気、迫力、感性の豊かさが優れているもの等がありますが、それは絵になじみのない人には非常に見出しにくいことだと思います。言葉では簡単に言えない、それこそミューズアイが育っていく過程で心に受け止められるようになるものだと思われます。

この内面がいろいろな表現手段によってうまく絵の中に現れているかが重要なことです。逆に言えば、どんなに内面が良くてもそれを表すことが出来なければどうにもならないことになります。その表現技術に優れた絵が世の中から高い評価を受けるポイントとなります。このことは別の機会に詳しくお話したいと思います。


25章ピカソの良さとは
よく言われるのが「何がすごいのか分からない…」という声です。
「わたしにも描ける」という意見は極論にしても、ひと目見ただけではむちゃくちゃで何がどう評価されているのか素人には分かりません。ピカソのすごさは次の2点に集約されました。

?基礎がしっかりした上で応用を利かせていること

ピカソの初期の作品を見たことはありますか?
「ゲルニカ」や「泣く女」など、いわゆる「どこがすごいかよく分からない」とされるピカソの絵画に触れることが多いですが、素人目にも「ちゃんとした絵」として映る写実的な絵画もピカソは描いていたのです。ダウンタウンの漫才に憧れ真似するも失敗してしまう若手芸人の増加を憂いた島田紳介が、こんなことを言っていました。
「ダウンタウンの漫才はピカソみたいなもんや。一見簡単でおれらにもできそうと思えるが、松本は普通にボケることができるうえでタイミングをずらしている。それも分からず、基礎もできてない若手がタイミングをずらしてもそりゃ失敗するで」
ピカソとダウンタウンを一緒にしていいか分かりませんが、基礎がしっかりした上で応用を利かせている点が彼らに共通するすごいところです。
?キュビズムという概念を誕生させたこと
キュビズムってなんでしょうか?
ちなみにウィキペディアには次のように記載されています。
「キュビスム(仏: Cubisme; 英: Cubism「キュビズム、キュービズム」)は、20世紀初頭にパブロ・ピカソとジョル ジュ・ブラックによって創始され、多くの追随者を生んだ現代美術の大きな動向である。それまでの具象絵画が一つの 視点に基づいて描かれていたのに対し、いろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収め、ルネサンス以来の一点透視図法を否定した。」

アフリカ彫刻に興味を持ったピカソが描いたこの作品ですが、先ほどと同じ画家が描いたとは思えないほど違います。
この画は、「ルネッサンス以来の写実的伝統から絵画を解放した」という点で評価されています。つまり、写実的な絵画がスタンダードな世の中で、キュビズムという新しい概念を美術界に吹き込んだ点が評価されているのです。
ピカソ自身にどのような考えがあったかは分かりません。もしかしたら写実絵画を極めちゃったから単純にキュビズムに走ったのかもしれませんしね。しかし、いずれにせよ、絵そのものよりも絵画の世界、価値観を押し広げた点がすごいという理由でピカソが評価されてるのは事実です。
厳密に言えば、写実主義からキュビズムに至る過程は単純なものではありません。
この記事によれば、ルネサンス以降写実性重視の時代が続いていましたが、写真の発明により、写実性に重きを置く絵画の意義が問われることになりました。そのようななかで、「もっと感じるままに描こう」という思想から印象派、ポスト印象派が生まれ、さらに…
「色とかも見たとおり描かなくていいんじゃないか?」

「形とかも見たとおり描かなくていいんじゃないか?」
⇒キュビズムの登場・・・(ここがピカソです)

「現実にあるものを描かなくてもいいんじゃないか?」
⇒シュールレアリスムの登場

…と続いていくわけです。(ちなみにこの後抽象絵画やドリップアートへ続いていきます)
このなかの「キュビズム」を誕生させたという点でピカソが評価されているわけです。
事実、「アヴィニョンの娘たち」をピカソはごく一部の友人に見せましたが、反応は芳しいものではなかったといいます。しかし、それでも自ら描きたい画を描き続けたことが、結果このような評価につながったのではないでしょうか。
本書は「西洋美学」を扱ったものであり、決して「西洋美術史」では無いと言う事である。
即ち、古代から人々が追い求めて来た「美とは何か」…という最大の疑問が如何にして発展し、そして変遷し続けたのかという事を解説した著作なので、謂わば「西洋思想史」、若しくは哲学分野に比重を置いた内容だと思って頂ければ間違いないと思う。
例えば「アリストテレスー芸術と真理」「トマス・アクィナスー制作と創造」「ヤングー模倣と独創性」「カントー自然と芸術」等など。
勿論、人物を中心に編集しているとは言え、プラトンに始まり、アリストテレス、プロティノスと続き、ライプニッツやレッシング、更にはカント、シラー、シュレーゲル…そしてヘーゲルとハイデガーが登場した上でダントーを以って終結しているので、大まかには時代順に構成されており、「通史」として読んでも差し支えないと思う。
勿論、一般的な芸術作品等を扱っている訳ではない事から、どうしても読者を限定してしまう著作であろう事は否定出来ない。
これに加えて、全体的にやや簡略な印象を受けるのも事実であろう。
「芸術学や哲学は敷居が高い…」と敬遠している方にも是非とも推薦したいと思う。
美学や芸術学を専攻している方達は言う迄もなく、多少なりとも「西洋美学と思想」に関心がある方であれば、本書が大いに役立ってくれるであろう事は間違いない。
1823年夏学期の筆記者ホトーたちによる定番の三巻本の長谷川訳も読みごたえがありますが、この新訳は、自然と人間精神ということを軸に、芸術、美、象徴、愛、抽象と具体と、詩歌の韻律やイタリアの音楽の旋律美を例に挙げ、のちのホトー版にも垣間見られる青年ドイツ派としてのヘーゲルの美学観を、眼前で講義を受けているように再現してくれます。用語解説も連番で確認しやすく、最初にこの一巻本からヘーゲル美学を読みとくにも、迷子にならないよう適切な構成になっています。
絵はたくさん描けば上手くなる。
そういう意見は多く聞きます。絵を描くのが好きな人ならば、時間が多くとれる人ならば、たくさん描くことで力は付いていくと思います。
でも、時間がとれなかったり、たくさん描けば良いと言われても漠然と描いていてこんなやり方で良いのかと疑問に思う人もいるかと思います。
この本はそんな人に良いのかなと思います。
どのような目的で絵を描くのか、どんな力が必要なのか。そういった、今までぼんやりとしたイメージや感覚でしなかったものを具体的に示してくれます。
作者の考えの根本に心を中心とした物事のとらえ方価値観に微動だにしない筋が通っていてすべてに共感できる。心を見つめ常に心と会話してこころの垢を取り除く日々を過ごしていたら、晩年は肉体が衰えて何もなくなった方がすっきり快適。勇気づけられ、確信を持てた本でした。
本書は、美を感じる脳の研究最前線からの報告です。社会脳の研究が広がりをみせるにつれて、従来の認知神経科学では取り組むことが困難だった美しさや、それとかかわる共感や感動などを、哲学的にではなく生物学的な立場から探る研究がはじまったのです。絵画、北斎漫画、能面、フラクタル図形などに反応する脳のメカニズムの解明をとおして、美しさと共感を生む脳のメカニズムに迫ります。




人が美しいと感じる対象はさまざまだが、美を感じているときの脳の働きには共通性があるはずだという。この仮説を検証するため、欲求と美の関係を分析し、美術作品を見ている際に起きている脳内反応の研究を紹介し、さらには視覚認識のメカニズムから画家たちの意図や手法をもとに、美をリバース・エンジニアリングする。こうした、「美と脳」のアプローチから得られる知見やトリビア、可能性がめっぽう面白い。
 たとえば、絵を見せて「美しい」「醜い」「どちらでもない」と判断してもらう際、脳内での反応を研究した成果が紹介されている。その結果、「美しい」と評価される絵を見るとき、報酬系の部分が活発に反応しているという。これは、前頭葉の下部にある眼窩前頭皮質で、欲求が満たされるときや、その満足への期待があるときに働く部分だ。つまり、美しさは、「欲しがる脳」で感じているといえる。
 あるいは、美学の文脈で、ラマチャンドランの「ピークシフト仮説」を紹介する。誇張された特徴により、より「らしく」感じられる人の視覚機能だ。これは、認知科学の研究で近年になって明らかにされてきたものだが、昔から芸術家たちは経験的に理解・応用していた。例としてモンドリアンの画面構成が挙げられている。その線分と色彩は、視覚脳の働きを最大化するような表現がなされているという指摘は、自分の目をもって納得することができる。アート/美術は視覚の神経科学的な法則に従うといい、「優れた芸術家は優れた神経科学者」と仮説づける。この発想がユニークだ。
 だが、その一方で、あえて「美」を定義づけていない。その結果、本書を散漫にも幅広にもしてしまっている。美の美的なところは、かならずしも描かれたモチーフの美しさにあるものではない。何が美しいのか、年齢、性別、パーソナリティ、文化的背景から個人的感情まで、千差万別だろう。アトリビュートやアレゴリーは、美を理解するための手がかりにもなるにもかかわらず、そいつを無視して完全に色彩や構成だけで語るには無理があろう。著者はそこを認めたうえで、そこから受け取る体験は共通性が認められるのではないかと踏みとどまる。
 つまり、その体験の仕方を分析したところに、美の共通概念を探す。howを突き詰めることで、共通的なwhatが見えてくるというアプローチから、美を微分する。「何が美か?」に答えようとする限り、古今東西の哲学者や美術家が束になっても終わらない議論に陥る。だが、「美を感じるとき、何が起きているのか」をボトムアップで分析するなら、集合知としての「美」があぶりだされてくるという発想なのだ。
 この研究はまだまだこれからだけど、実は、わたしの中で一つの「結論」がついている。
 それは、「美とは、パターン認識における調和とズレ加減が"わたし"と合っていること」だ。これは音楽から学んだ。音楽の快や美について研究した『音楽の科学』『響きの科楽』によると、耳に入ってくる情報は選択的に減衰されて処理されている。そして、耳に入ってくる情報(=聞こえ)から次の音律やリズムパターンを予測し、予測と「聞こえ」が調和していれば、快や美を感じる(ただし、ずっと"正解"ばかりだと飽きるので、一定のズレも必要となる)。耳に入ってくる情報の処理パターンは、"わたし"の経験によって学習づけられている。音楽がどう聞こえるかは、聞こえた音そのものだけによって決まるのではなく、その人が何を聴いてきたか、ひいてはどういう音楽が聞こえると予測するかによって、「聞こえ」が変わってくる。
 ヒトの感覚の本質は、「外界から情報を得る」だ。視覚であれ聴覚であれ、情報処理の過程で、予測と実際の調和やズレを絶えずフィードバックしながら高度に発達させてきた。本来ならば、外敵から身を守り、未来の危険を予測し、子孫を残すための聴覚情報・視覚情報の処理プロセスだったが、人類にとってサバイバルな時期を越えても、このプロセスは生き残った。
 その経験の最適化が、いま聴いている・観ている"わたし"に美を感じさせる。あまりにも予測を裏切られる旋律ではなく、あまりにも予定調和な構成でない、「いい感じで経験を裏切り、更新する」ちょうどいい最適化こそが、美しい音楽であり、美しい絵画になる。音楽は、経験によって最適化された「聞こえ」の快であるように、美術は「見え」の快なのだ。
「美を感じると脳の特定の部分が活性化する」と言われていますが、「美を感じると痺疼痛の伝達が和らぐ」のです
「美しい」「美しくない」「関心がない」の3段階に評価してもらった結果、
「美しい」と評価した絵や音楽では、「美しくない」「関心がない」と評価したものと比べて、脳のある部分の血流が増大していた、ということが明らかになったのです
増大していた部分の名称は、『内側眼窩前頭皮質(mOFC)』、つまり脳の前頭葉の中でも、眼窩(がんか)の上にある部分です。
眼窩とは、顔面を形づくっている頭蓋骨顔面頭蓋で、眼球およびその付属組織(眼筋、脈管、神経、涙腺とその付属器、眼球周囲の眼窩脂肪組織を収容するために形成した1対の陥凹部のことで、全体の形態は四面錐体形をしています。

内側眼窩前頭皮質はかなり大きく、美だけでなく感情、報酬と喜びの感覚、決断力などにも関わっている部位なのですが、画像や音楽を体験すると、脳の他の部分にも変化が表れます。脳に「美という概念が存在する」ことを暗示しているという訳です。
研究者達の考えは、「美の体験には内側眼窩前頭皮質の、特にその中でもA1野の活性化が伴う」というものです。
それはつまり、美は芸術そのモノ(絵や音楽)自体にあるのではなく、見聞きする脳の持ち主にあるというものなのです

たとえば文壇に出たてのころの高見順をカメラに収めようと 筆者は家へ出向いた。 高見順は書斎風の部屋でお待ちかねだった。あれこれとポーズをとったらしい。 ところがカメラマンは一向に撮る気配をみせない。土門拳にしてみれば順さんあまりに意識しすぎだよ、、ということだったのだろう。
それでも写さにゃあならんということで、ころあいをみてシャッターをきった。帰り際「おでこが結構でした」と言い放った。
後年高見順は 土門拳を「実に無礼なやつだった」と振り返ってる。 それから15年ののち再び高見順を写真に収めるべく訪問した。彼はカメラのことなどまったく気にせずひたすら机に向かって原稿を書いていた。成長のあとがありありとみえたという。
一流写真家が捉えた 各界著名人の逸話というかんじだ。土門拳の手になる巻頭写真数枚をみる。被写体はただものではないなという雰囲気を醸し出している。

第26章美とは
ここまででの美について感想を述べておく。
どうやら美とは技術的なものではなくて、脳が感じるものの様だ。その映像は微視的にみれば単なる点であるが
それが線や色を付けることで如是相となり心が伴えば如是性となりさらに如是体となるそこに因と果さらに
縁、報が加わり如是力、如是作となる。
法華経』方便品に説かれる因果律では十とは
  • 相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等(そう・しょう・たい・りき・さ・いん・えん・か・ほう・ほんまつくきょうとう)
をいう。如是とは是(かく)の如(ごと)し(そのようである、という意)のこと。また十如とも、諸法実相ともいわれる。
なお、この十如是は鳩摩羅什が訳出した法華経にのみ見られるもので、他の訳や梵文(サンスクリット語)原典には見当たらない。
この十如是は、後に天台宗の教学の究極とまでいわれる「一念三千」を形成する発端とされており、重要な教理である。

心体ともに反映されたものが美に反映されるのではないか。
よって心のフィルターを通して絵など描かれる。故に偉大な美術品は偉大な人が関与
するのではないか
プラトンからアドルノまでの“美”論を批判的に精査したうえで、“美しい”とはどういうことか、をハイデガーの存在論の見地からここに解明する。
社会脳シリーズ第4巻の配本です。美を感じる心は、人間にのみ備わっているのでしょうか? もしそうだとしたら、鳥たちや、魚たちまで、なぜこんなに美しいのでしょうか? 美は、生命にとって本質的な何かではないのか、と思わないではいられません。本書は、美を感じる脳の研究最前線からの報告です。社会脳の研究が広がりをみせるにつれて、従来の認知神経科学では取り組むことが困難だった美しさや、それとかかわる共感や感動などを、哲学的にではなく生物学的な立場から探る研究がはじまったのです。絵画、北斎漫画、能面、フラクタル図形などに反応する脳のメカニズムの解明をとおして、美しさと共感を生む脳のメカニズムに迫ります。
ソフトウェア開発に欠かせない技術となった「リバーシング」から「アンチリバーシング」までを徹底解説! 
C/C++に対応したそれらの手法を、韓国の一流技術者が丁寧に説明します! 

ソフトウェアのリバースエンジニアリングは、セキュリティ分野や悪性コードの分析に限られたものではない。
エンジニアリングにおいても、リバースエンジニアリングは不可欠な過程の一部だ。
特に最近のように、開発のための要素がモジュール化されている状況では、ソースコードが得られないことも多く、モジュールの動作の理解度を高めるために、リバースエンジニアリングは必須になっている。
また、自分が作成したコードでも動作の問題を解決したり最適化などを実現したりするためには、リバースエンジニアリングは必須の作業だ。
若き大学教授とその助手が、日常の謎を、人文系の知識を使って解き明かすというもの。確かに知識や蘊蓄のひけらかしのようでもあるが、
有名な映画スターまで数限りない「愛の形」人それぞれの考え方、幸せ、実際にあった人食…。人の人生とは、長くもあり一瞬の輝きのようでもあり、その中でその人にとっての「愛」とは?欲しかったもの、めざしたものとは?
たおやかな感じすらする表紙は、他誌にない絶妙な色気を感じた。これみよがしなセクシーショットは、あざとくてチープさすら感じるものだが、この表紙には好感を持った。市場におもねる感じがない(過大評価?)。中をめくると、グッと色気と清純さが同居する懇親の写真の数々。知英と山崎紘菜にハッとし、真野恵里菜にタメ息し、ハン・ヒョジュに癒され、レンブツ美沙子にキュンとし、シャーロットに煽られた。
この「日本芸術写真史」がそれらと異なるのは、美術(それも江戸末期の新しいテクノロジーによる意識変化、明治以降の西洋絵画、前衛芸術運動、そして現代アートまで)の視点から写真史を読み解いているところで、むしろ美術にたずさわっている、あるいは近代美術史に関心がある人にとって、考えを劇的に刷新するものだ。もちろん写真表現からアートへと入ってきた人たちにとっても、先人たちによる試行錯誤の道をたどるのに役立つことは言うまでもない。
サブタイトルが「浮世絵からデジカメまで」になっているところが、誤解を生むかもしれないが、これはクロノロジカルな事柄を象徴したものである。例えば、写真前史である江戸時代に、西洋からの様々な技術が移入されたことによって起こった人々の意識の変化から、その後の先端技術である写真がどのように当時の画家たちに影響を及ぼしたかを知ることができる。そして、その江戸あるいは明治の人々の意識には、新しいテクノロジー、メディアに対する、現代でも共通する芸術表現の課題を見つけることができる。
日本の美術館における企画展の中で多分一番集客の多いものだと推察するほど皆に親しまれています。
本書はそんな印象派絵画の見かたを指南した書籍で、石橋ブリジストン美術館館長の島田紀夫氏の監修により学術的にもしっかりと検証されたものです。絵画鑑賞というと堅苦しく感じますが、気取らずに絵と親しくなる切っ掛け作りにこのような書籍は大変有用。
本名はジャン=ミシェル・バスキア。80年代のニューヨークのアートシーンを牽引した人物です。「グラフィックアート」と呼ばれる新しいスタイルの絵画を確立させた人物でもあります。グラフィックとは簡単に言えば「落書き」の事。ストリートアートと呼ばれる「落書き」をアートの域まで高め、札付きの不良から新進アーティストまで上り詰めたバスキアとは?
バスキアがストリートアートを始めたのは10代の頃。スラム街のビルや壁にスプレーを使ったグラフィックを描き始めます。勿論これはアートではなく「落書き」。彼の活躍した70年代80年代のアメリカは今以上に人種差別激しい時期。黒い肌を持って生まれたバスキアにとってマンハッタンは生きやすい街ではありませんでした。理不尽な人種差別によるフラストレーションがバスキアの作品の原動力となっている事は間違いありません。

第27章美とは
ここまでで美について考えてみよう
小説や映画や美術といったいわゆる「アート」は、その出発点を、作家自身の衝動や情熱、そしてそれを生み出した「不幸」に求めることが多いです。若くして経済的成功と画家としての名声、そして美しい妻を手に入れたピカソは、きっと「幸せ」になってしまうことがイヤだったのではないかと思います。「幸せ」っていいもんですが、芸術作品を生み出すものとしては、ちょっとパワーが足りません。「不幸」や「苦しみ」、「憎悪」、「嫉妬」といったネガティブなもののほうが、作品を生み出す原動力としては、圧倒的なパワーをもっています。印象派以降の、現代美術といわれる分野では特に。
なので、ピカソがわざわざ女性の嫉妬心を駆り立てるような意地悪をしてきたのは、きっとその女性のドロドロしたエネルギーを吸収し、作品に昇華させるためだったのでしょう。女性が苦しむ様子を見て、自分の感情にも大きな波が生まれ、その波を芸術作品を生み出すことに利用していたのでしょう。
芸術家とは、まことに因果な商売です。
しかし、因果な商売であるのは、芸術家だけではありません。
鑑賞側にとっても、この話はあてはまります。
見る側にとっても、あまりに「幸せ」だと、芸術作品を見ても心が揺れません。もちろん、ピカソのように異性関係をわざわざめんどくさい事態にする必要まではないですが、自分のなかに潜んでいる「不幸」な部分をないがしろにしないほうが、アートを見る感性は高まります。
人生のすべてが100%幸せな人っていうのはきっといないので(もしいたら、その人はむしろ不幸だといえます)、自分のなかにあるドロドロした部分のフタをたまには開けてあげて、大事にしてあげることで、それまで何とも思わなかった作品が途端に心に響くものになったりします。
ピカソと私のような、一見共通点がない者同士でも、お互いの「不幸のフタ」を開けてみると、少なからず共鳴する部分があるものです。

というわけで、ピカソに関わらず、「???」と思ってしまう作品・作家があったら、まずは作家の人生を調べてみて、さまざまな作品を見て、自分と共鳴する部分を探してみましょう。
これがピカソ(や、その他の芸術)が“わかる”ために必要な2つのこと、だと私は思います。

第28章美学とは

伝統的に美学は「美とは何か」という美の本質、「どのようなものが美しいのか」という美の基準、「美は何のためにあるのか」という美の価値を問題として取り組んできた。科学的に言えば、感覚的かつ感情価値を扱う学問でもあり、ときに美的判断そのものを指すこともある。より広義には、この分野の研究者たちによって、美学は「芸術文化及び自然に関する批評的考察」であるとも位置づけられる。
美学が一つの学問として成立した歴史的背景には、18世紀に啓蒙主義の思想と自然科学の確立に伴って表面化した科学認識と美的もしくは感覚認識の相違が認められたことと関係している。バウムガルテン理性認識に対して感性認識に固有の論理を認め、学問としての美学を形作った。後にカントは美学の研究について美的判断を行う能力としての趣味を検討し、趣味を支配する普遍的な原理は存在しないことから、美学を美そのものの学問ではなく美に対する批判の学問として位置づけた。ここから美学はシラーシェリングヘーゲルなどにより展開された美に対する哲学的批判へと焦点が移行するが、19世紀から20世紀にかけて美の概念そのものの探究から個別の美的経験や芸術領域、もしくは芸術と他の人間活動との関係にも考察が及んでいる。
なお、日本語の「美学」は、本来の意味から転じて勝敗利害を超越した信念の持ち主を評するときに用いられることがある。たとえば囲碁棋士大竹英雄棋風は「大竹美学」と称されるが、別に大竹が哲学者を兼ねているわけではない。
「美学」という術語が生まれたのは18世紀中葉でありドイツの哲学者アレクサンダー・バウムガルテンが用いたaestheticaに由来している。
バウムガルテンは1750年に『美学』 (Aesthetica) を出版したことが、美学が哲学の一領域として定式化される一つの契機となった(バウムガルテンは、最初の著作『詩についての哲学的省察』の中で既に、の美学的価値の原理的考察を思考する学として aesthetica という学を予告している)。
この aesthetica という語は、「感性的認識論 scientia cognitionis sensitivae」の意で用いていることは明らかである。
バウムガルテンによれば「美は感性的認識の完全性」であるから、aesthetica(「感性的認識論」)は「美について考察する学」である。一方、「完全な感性的言語 oratio sensitiva perfecta」である。
( aesthetica = 感性的認識論 = 美について考察する学 = 芸術理論 )
バウムガルテンの体系においては、美や芸術に関する学的考察である感性的認識論は、理性的認識論との対比において「疑似理性の学 ars analogi rationis」であり、「下位の認識論 gnoseologia inferior」として位置づけられた。
ギリシャ・ローマ時代には美学という明確な術語が存在しなかった。古代にも美と芸術は存在論、形而上学、倫理学、技術論などから捉えられたが巨視的な考察は乏しかった。また、古代における美学の捉え方は特定の局面の断片的または個別的なものにとどまっていたと考えられており組織的な考察は行われてはいなかった。
体系化された美学の淵源はプラトンにまで遡る。イマヌエル・カントの『判断力批判』、シェリングの『芸術の哲学』講義、ヘーゲルの『美学』講義などを経て、フィードラーde:Konrad Fiedler)の「上からの美学」批判を受け、現代に至る。現代美学において特筆すべきは、・実存主義分析哲学ポスト構造主義によるアプローチであろう。
バウムガルテン(A.G.Baumgarten,1714-62)は、ライプニッツヴォルフ学派の系統に属す。「美学」(aesthetics/英)という学問の名称は、彼が、「感性」を表すギリシャ語から作ったラテン語の造語「Aesthetica」に由来する。彼はフランクフルト大学で1742年からこの「美学」の講義を始め、その後も再度の講義要請があったことから、もとの講義内容に若干の加筆修正を行い、これをラテン語で出版した。『美学(Aesthetica)』第1巻は1750年、更に第2巻が1758年に出版された。
美学の目的は、感性的認識そのものの完全性にある。然るに、この完全性とは美である。そして、感性的認識そのものの不完全性は避けられねばならず、この不完全性は醜である。

日本における美学

日本語の「美学」は、中江兆民がVeronの著作を訳して『維氏美学』と邦題を付けたことによる。日本の高等教育機関における美学教育の嚆矢は東京美術学校および東京大学におけるフェノロサのヘーゲル美学を中心とした講義、森林太郎(森鴎外)による東京大学におけるE. V. ハルトマン美学ら当時の同時代ドイツ美学についての講演、およびラファエル・フォン・ケーベル(ケーベル先生の呼称で知られる)による東京大学での美学講義である。また京都においては京都工芸学校においてデザイン教育を中心とする西洋美学および美術史の教育がなされた。なお東京大学は独立の一講座として大塚保治を教授に任命、美学講座を開いた世界で最初(1899年)の大学である。日本には、西洋のような一貫した形での思索の集大成としての「美学」は無い。しかし、いきわびなどの個別の美意識は、古くから存在しており、また茶道日本建築伝統工芸品などを通して、さまざまな形で実践されてきた。また、歌論、能楽論、画論などの個別の分野での業績はあるものの、孤立した天才の偉業という色彩が濃く、一枚岩の美学ではない。これらの美意識は、自然と密接に関連しているが、西洋美学は、近代以前はもっぱら「人間」を中心に据えた「芸術」のために発展した。そのため、日本の美意識は、西洋美学の視点からは、十分に記述・説明することができない。近代以前の日本の事物について、「芸術」という視点を持つ美学から論じると、学問的文脈を無視した議論となり、慎重を期すべきである。日本人自身も、日本の美意識を、明快に定義・説明することが困難であるのが現状である。今後、複数の視点を生かした研究が待たれる。
日本において美学的思考が初めて意識的に理論化されたのは、『古今和歌集』「仮名序」においてである。 紀貫之は「仮名序」で、和歌は純粋な心の結実であるとした(「やまと歌はひとつ心を種としてよろずの言の葉とぞなれりける」)。 そして和歌は天地開闢の時から出来したと述べ、和歌に結集する芸術は、「生きとし生けるもの」の生の表現がヒトにおいてその精華を開花させたものであるとした。
藤原定家は、「むかし貫之歌のたくみにたけおよびがたくことばづよくすがたおもしろき様をこのみて余情妖艶の体をよまず」(『近代秀歌』)として、「あはれ」(優美)の範疇を開拓した。
ここから芸道の精神が生まれ、演劇論としては、能の世阿弥の『花鏡』の「動十分心動七分身」(心を十分に動かして身を七分目に動かせ)という余情演技、「せぬが所が面白き」という「為手(して)の秘する所」を中心とする能の幽玄論の「かたちなき姿」を尊重する秘伝につながる。
これは、技法上の修練が必要であることに理解を示したうえでの、俳人の松尾芭蕉による、「俳諧は三尺の童にさせよ初心の句こそたのもしけれ」(『三冊子』)という、「気」の芸術の主張につながる。 この内面的な自発性は、『笈の小文』によれば、西行の和歌、宗祇の連歌、雪舟の絵、千利休の茶を貫く風雅の精神である。
このことを別の側面から保証するように、文人画家の池大雅は、絵画でいかなることが困難であるかと質問されて、「ただ紙上に一物もなきところこそなしがたし」と答えたという(桑山玉洲『絵事鄙言』)。
この気の芸術の神秘主義は、宇宙的生命の自己表現から出発する日本の美学思想に起源するが、たぶんに、中国思想、仏教思想の影響がある。
一方、これに対して、純粋な日本的精神による美学を主張したのは国学者の本居宣長である。 本居宣長(『石上私淑言』)は、「事にふれてそのうれしくかなしき事の心をわきまへしるを物のあはれを知るといふ也」と述べて、事象と自我との接触としての経験において事象の本質を認識したうえで成立する感動を、「物のあわれ」と規定した。 そして、これを知る人を「心ある人といひ知らぬを心なき人といふ也」(同上)として、すなわち「もののあわれ」を知ることが人間が人間たるゆえんであるとした。 しかるに、「なべて心に深く感ずる事は人にいひきかせてはやみがたき物」(同上)であるのだから、感動の表現は人間的な必然となる。 その表現手段の粋は、「鳥虫に至るまでも(中略)おのれおのれが歌謡をなすものを人間として一向詠む事あたはざるは恥ずべきことのはなはだしきにあらずや」(『あしわけおぶね』)というように、和歌である。 かくして本居宣長においては、感覚的経験、認識、感動、表現欲求、そして芸術制作という、創造をめぐる美的経験の構造分析が行なわれている。 本居宣長はまた、「歌の本体政治をたすくるためにもあらず身をおさむる為にもあらずただ心に思ふ事をいふより外なし」(同上)として、儒教の教えとは鋭く対立し、芸術の自律性の主張した点においても、近代精神を先取する側面があった。
このように美と芸術を重視する思想的伝統があるために、西洋美学の摂取も成功したのであり、西周中江兆民森鴎外高山樗牛以後においては、東洋の伝統に立ち茶道における老荘の美学的世界観を主張した岡倉覚三の『茶の本』、および西洋美学の方法で歌論を研究してその側面から範疇論を補足した大西克礼の『幽玄とあはれ』は注目すべきである。

第29章絵画論
 自分で描いた絵を鑑賞するということ
まず最初に「自分の描いた絵」と、それをとりまく人との関係を考えてみたいと思います。「自分が描いた絵」に対し、「自分」との関係、「自分以外の人」との関係の順に説明していきます。

まずケース1。
一所懸命絵を描いてみたのだけれどその絵が上手いのかどうか自分でわからない状態、又は描いたことは描いたがそのあとのことにはあまり関心がない状態です。描いた人とその絵に向き合う姿勢について言っているのです。絵柄そのものの芸術性云々はここでは問題にしません。

次にケース2。描いた絵と正しく向き合い、評価できてイコールの状態になっている場合「イコール」という意味には、絵の内容と自分の美の基準が同じという意味の他に、描いた絵の好き嫌いや楽しみ、苦しみなど自分の正直な気持ちを込め、絵と向き合えるということも含まれています。
最後にケース3。描いたあなた本人はその評価にいやでも向き合わねばなりません。
まとめて言うと、
ケース1は絵に目が向かない、ケース2は絵に自分の目が向いている、ケース3は絵に自分+他人の目が向いている、となります。この3つのケースを頭に入れておくだけで、絵を描く上で混乱や惑いもなくなり、非常に便利です。
一般的な「絵」を上達させるためには、楽しく描く事より描き続けていく事の方が重要です。絵は自分で描いて楽しみ、出来上がったものを見て再度楽しむことが出来るのが望ましい状態です。これは前の図のケース2の状態です。
これが無い(育ってない)と、すぐに絵をやめてしまいがちです。ただ描いているだけでは同じことを繰り返しているだけになるので、飽きてしまうからです。私たちが絵を楽しく続けていくには「ミューズ・アイ」が必要で、「ミューズ・アイ」は描き続けなければ育ちません。しかも油断するとすぐにこの目が曇り、自己満足に陥ってしまいます。ニワトリと卵の関係の様にどちらが先かわかりませんが、「絵を描き続ける事」と「目が肥えてくる事」は相互に作用しながら同時に育ち、進みます。いろいろな事柄〔例えば素材(絵の具、紙質、筆、…etc)や描き方(日本画、洋画、切り絵、…etc)、発表の場(グループ展、個展、各公募店、各会派、研究所の各賞、…etc)や練習方法〕がこの「ミューズ・アイ」「描き続ける」という2本のレール上に位置しています。これらの事柄は絵画の手段であって目的ではありません。ただ楽しみ、利用し、活用して「ミューズ・アイ」をどこまでも育てていく様になってほしいのです。このblogがその手助けになれば、と思います。
「ミューズ・アイ」が十分育てば、第3者(他人の目)と対等かそれ以上に絵と向き合うことが出来ます。さらに、絵画以外の芸術分野、すべての創造分野を理解する唯一の道しるべとなります。昔から一芸に秀でた人は何をやらせても良い仕事をすると言われるのもこのおかげでしょう。

時代にあまりに先駆けて世に出たがゆえに難解書とされてきた『物質と記憶』を、現代諸科学の知見を通して新たに読解する野心的試み。『ベルクソン『物質と記憶』を解剖する――現代知覚理論・時間論・心の哲学との接続』の続編。檜垣立哉、兼本浩祐、バリー・デイントンほか。
プラトンからアドルノまでの“美”論を批判的に精査したうえで、“美しい”とはどういうことか、をハイデガーの存在論の見地からここに解明する。ウィーン大学を代表する哲学研究者、G.ペルトナー教授の待望の翻訳。
日本の風土や文化、歴史をとてもたいせつに考えているのである。島国・日本の代表的な風物は「海」と「山」だと思い定め、その下絵をつくるために、昭和48年の1年間、日本全国をスケッチして歩いている。
「海」のためには、青森県から山口県まで日本海側を南下し、「山」のためには主として長野、岐阜、富山の各県を旅している。理想的な「海」は能登で出会うことができた。
《沖の方から白い弧線を描いて進んでくる波の列が……波頭を連ねて、寄せて来る。……何段かになって渚に届くと、先頭の列が力尽きたかのように足踏みをし、ためらいながら引き返そうとする。その瞬間、白い泡のアラベスクが華やかに浮び上る。……海の色も……青でも緑でもなく、日本画の絵の具で言う錆群緑【さびぐんろく】のような落ち着いた感じである》「山」は飛騨路。
《道は曲りくねって峠へと登っている。谿を挟んで遠近の峰が瞬く間に現れ、消え去る。山肌を這い上る雲烟による千変万化の姿と、近景の樹葉の濃淡の彩り。幽幻な景趣に、私は思わず息を呑んだ》
本書には、そうした著者の短文が7篇ほど収録されていて、そのどれもが日本の風土への<愛>に貫かれている。
《山の雲は雲自身の意志によって流れるのではなく、また、波は波自身の意志によってその音を立てているのではない。それは宇宙の根本的なものの動きにより、生命の根源からの導きによってではないでしょうか》
《春の芽ばえ、夏の茂り、秋のよそおい、冬の清浄――そうした自然の流転の相【すがた】を眺めて、人間の生と死の宿命を、またその喜びと悲しみを、私ども日本人は、すでに仏教渡来以前からはだに感じていたのではないでしょうか》

第30章モネの美学
多くの事を教えてくれるのがモネの絵です。おそらく、モネの描いた風景を探し、同じ場所に行っても、その絵から受ける感動とは別物でしょうね、そんな気がします。たとえモネの睡蓮と同じ池を造ったとて絵から放つ感動の再現は出来ない事でしょう。なぜなら、モネの風景はその時の印象の瞬間を描いたもので、物理的に既にその瞬間は存在しないから、その感動はカンバスの中に創り出したモネのリアルで、完全に独立した風景だと思うからです。クロード・モネという人間の感性を私達は観ているわけです。それはモネに限らずゴッホの絵とか他の画家の絵でもそうです。絵画とは自分の感性をカンバスに映し出すものだと教えてくれているように思います。キュビズムで有名なピカソとかブラックとの接点もあったのかも解らないのですが、晩年の作品となると、もう完全に抽象画です。やはりモネはピカソのキュビズムとは異なるラインで究極のリアルを求め、挑戦し続けていたという思いは深いですね。眼が悪くなったからあの絵なのだとも言われそうですが、気に入らない絵は破棄していたとも訊きますから、それは無いでしょう。そして晩年の絵は画像に導き、キュビズムはピカソやブラック達の発明ではなく、発見なのだということを気付かせてくれます。その画像とはハッブル宇宙望遠鏡で集めた宇宙の星雲画像です。星雲画像に散りばめられた星の光はそれぞれ一つ一つ、数年、数百年、数億年の時間を隔てて届いた星の光の集まりです。超絶のタイムラグ!まさに超絶的キュビズムですよ。感動ですよ、もう既にキュビズムの世界は宇宙誕生と共に有ったんですねぇ。よくキュビズム絵画は分からんとか聞きますが、誰にも解る美しさを極めたキュビズムが、天の川を臨む夜の星空、そこに有りました。

第31章絵画の美とは
ヨーロッパ中世に生きた人達にとっては観る絵画は現代で言えば巨大スクリーンで観るスペクタクル映画みたいな感じだったでしょう。
また、対象の光学的な現象の再現定着という意味では、写真の普及で絵画はその役割を終えていて、その後は印象派を起点としてモダニズム絵画という、絵画というメディアそのものの自己言及に探求の方向性が転換されました。多種多様なメディアの発達とともにメディアとしては地味な印象になった絵画、光学的現象の記録という役割を喪失し、自己言及に至った絵画、そういう絵画というメディアへの関心が薄らぐということも充分理解出来ます。絵画というメディアに関心が無かったら、もっと関心のある別のメディアを鑑賞すれば良いのです。絵画というメディアは他のメディアでは真似の出来ない素晴らしい可能性を秘めたメディアだと思っていますけれどね。モダニズム絵画自体も70年代以降には、ポストモダンの潮流によって解体され、現時点では絵画の歴史全体の再検証の時代に入っていますから、その成果が今後どのような形で出現するかはとても楽しみなことです。


絵画というメディアは現在もどんどん変身しているので、気が向いたらまた鑑賞してみて下さい。きっと新しい発見があると思いますよ。

横山大観は、師・岡倉天心と共に菱田春草や下村観山らと近代日本画を率いた巨匠のひとりです。「富士の画家といえば大観」といわれるほど、生涯にわたり富士を追求し続けました。まさに大観画伯が描く富士は日本の心そのものだといえます。 



大観画伯の気宇壮大な世界

白い綿のようなすすき野に、おみなえし、ききょうが顔を覗かせています。聳え立つような松、誇らかに色づく紅葉、近景の流水、その背景には壮大な大観の富士。遠近法を超越した芸術が大観画伯の傑作である証明といえます。 

会(JAGAT)サイトをご確認ください。
韓国との異文化コミュニケーションが中心であった徳川時代までの日本では 『和魂漢才』。欧米との異文化コミュニケーションが重要な課題となった明治維新以降の日本では、自覚する・しないに関わらず『和魂洋才』的に生活し活動してきました。
なお、[菅家遺誡]とあるのは、和魂漢才という言葉の出典が平安時代の学者・漢詩人・政治家で、著名な菅原道真(845-903)が後人のために残した訓戒を記した書籍に出ているという表示です。
しかし、筆者が知る限りでは和魂漢才という熟語を菅原公が直接書いて残したものではないようです。例えば、『菅原道真の実像』(臨川書店 2002)の著者(所功)は、次のように言っています。
「和魂漢才」という熟語は、学徳を表わす彼自身の言葉として、幕末ころから全国に広まった。しかし大正時代、加藤仁平氏が明らかにされたごとく、この熟語を、室町時代成立の『菅家遺誡』を解説する文中に記したのは谷川士清であり、しかも道真の言葉として使ったのは平田篤胤であるから、江戸中期以前にはさかのぼりえない。
とはいえ、つとに紫式部が『源氏物語』の中で「才(ざえ)を本としてこそ大和魂の世に用ぬらるゝ方も強うはべらめ」という意味に即して考えれば、外来の儒教・漢詩文に精通し、その『漢才』を活用しながら宮廷社会の現実に柔軟に対応する見識『大和魂』を発揮した人物こそ、実は道真なのである。従って、道真を『和魂漢才』の人と称えることは、十分意味があるといえよう
『和魂洋才』と時代の変化
日本国内にあっては、明治から大正、昭和、敗戦、戦後復興から経済大国そして高度情報化の平成へ。この時代、マクロに見て世界的に大きく、しかも急速に変わったのは、自然科学と工学技術そしてグローバルな経済であることは誰も異存はないでしょう。
21世紀は、さらなる高度情報化とグローバル化の時代で、異文化コミュニケーションが極めて重要なことは、日本人の誰しもが感じていることではないでしょうか。そして『より美しい自己実現』との関係で言えば、『和魂洋才』は一部のリーダーだけの問題ではなく、日本国民全員の問題なのです。
明治時代のように海外旅行や海外留学が一部のエリートだけの特権であった時代は、すっかり過去のものとなってしまいました。そしてグローバルな高速インターネット網が世界中に張り巡らされ、誰でもが、いつでも、どことでも、特別な地域を除いては自由にコミュニケーションできる時代が来ています。さらに、個人を知的にサポートするGoogleやWikipediaなどのオープンな機能も急速に充実してきています。
21世紀の『和魂』と『洋才』
自然科学における進化論の今日的な知見を基礎として言うならば、『和魂』とは日本文化の真髄であり、『洋才』とは日本以外の文化の見習うべきいろいろな良い点ということになります。
より具体的に言うならば、国や地域の文化で中核を担っているのは、それぞれの文化に特有な言語体系であるということができます。人間は進化の過程で言語を獲得して使い始めた大昔から、母語を使ってものごとを考えコミュニケーションし、行動してきたのです。
日本では近代に入って、自分たちの認識能力を『感性』と『理性』の二元モデルで把握するようになりました。一方、西欧ではギリシャ哲学以来の伝統文化のうえで『感性(英 語のSensibility)』と『悟性(ドイツ語のVerstand、英語のUnderstanding)』と『理性(ドイツ語のVernunft、英語のReason)』の三元モデルになっているのです。
日本語の『感性』と英語のSensibilityは、同じ感性といっても意味するものは違っています。Sensibilityを感覚と日本語に訳すことも少なくありません。このことは、先に 2.4節で述べた日本の感性工学会の英語名が[Japan Society of Kansei Engineering]となっていることにも表れています。
私たちが風景や絵画や音楽などに接したとき、時間と空間という形式を持つ直感能力で情報(感覚的知覚:印象)を捉えます。これがカントの言う『感性』です。次に、いろいろな感覚的知覚を分類・整理してイメージを構築します。このような論理的能力を『悟性』と呼んでいます。
カントは判断力を、悟性と理性を総合する媒介であるとしていますが、判断力には二つあって第一のものは規定的判断力と呼んでいるものです。特殊なものを普遍的なものに含まれたものとして考える能力のことで、一般的判断力と考えられるものです。
もう一つが、美意識にも関係するカントが言うところの反省的判断力です。ここで言う反省とは、与えられた事象をさまざまな認識能力を使いその本質を知ろうとする心の状態のことです。従って、反省的判断力とは特殊なものの中に普遍的なコンセプトを見出す判断力ということになります。
このような考え方では、美的判断は単に個人的な判断だということではなく、ある種の普遍性を持つということになります。そして、美的創造力は多様なものの調和的統合の理念を呼び起こす力があるとされるのです。これがカント美学の原点なのではないでしょうか。
一方、カントの場合の『理性』は、理性が真理を明らかにすることが可能か?との問いかけで「理性批判」を展開し、理性の有効性と限界を明らかにしました。詳しいことは省略しますが、「純粋(理論)理性」と感性的な世界を超越した「実践(道徳)理性」とに分けて説明しています。
現在の日本語の国語辞典で『感性』とは、「外からの刺激を心で感じとる能力」であり、『理性』とは「ものごとを論理的に考え、正しく判断する能力」であると説明してあります。また、『悟性』は「経験にもとづいて合理的に思考し、判断する心のはたらき」、と出ています。
従って日本人が言う『感性』とは、カントが言う『悟性』の一部を含み、『理性』とはカントが言う『悟性』の一部と「理論理性」、そして八百万の神的道徳律を含んだものなのではないでしょうか。
いずれにしても、4節でも述べたイマヌエル・カント(1724年4月~1804年2月)と前節で紹介した国文学者の本居宣長とは、くしくも生きた時代が全く重なっています[本居宣長(1730年4月=享保15年5月~1801年11月=享和元年9月)]。
今や私たちの身の回りは、すっかり人工環境に囲まれてしまっています。私たちが日本文化の大和心を呼び覚まし、自らの『感性』を磨くためには自然とのふれあいを増し、自然の中に『美』の本質を見出すように心がけるべきではないでしょうか。
そして同時に、日本文化の『理性』は西欧文化の『理性』と比較してかなりあいまいである、と私たちは自覚する必要があります。足らざる自覚の上に立って、他文化の優れた点に学べばよいのです。
論理的思考法を熟知しているはずの高学歴な若者たちの論理的コミュニケーション能力が、一向に改善されないどころか低下しているのではないかと感じる場面が多くなっています。いろいろな場面での他者との協働の実をあげるためには、『論理的コミュニケーション』のマナーが不可欠です。相手とのコミュニケーションに際して、自己の主張と主張を裏付けるデータとそのデータの信頼性保証(根拠)をワンセットとして相手に伝えることです。そして、その主張のワンセットを受け取った相手は、そのデータと根拠が了承できるものであれば主張は共有され、そのテーマに関してのコミュニケーションは完結します。
しかし、提示されたデータや根拠に疑問があれば議論は継続されます。この場合にあっても、最初の主張は主張として尊重されるのが原則です。人間は互いに自律した存在で、それぞれの人格が尊重されるべき協働にあっては、反対の意見であっても、それを尊重することで新たな創造が生まれるからです。
日本のコミュニケーション様式に対して、従来からも「あいまい」であるとか「腹芸的」などと指摘されてきたことと同一平面上の問題なのですが、自己主張のすれ違いではなく、それぞれの自己主張を共有し、さらに精緻化していくためには『論理的コミュニケーション』のマナーが不可欠なのです。
中原氏の絵が豊富に掲載されているし、各界で活躍されている方々の中原氏に対する思いがたくさん寄せられています。日本人が素晴らしい芸術的感覚の上に生きていることを確認して、明日とは言わずたった今から文化を創造する生活をおくるエネルギーを与えてくれる本です。

第32章美の基準は主観的なものではなく絶対普遍のものが存在する?
自然的美、数学的美、黄金律みたいなものがそうかなと思います。
主観的なモノでありながら、絶対普遍なモノを求めるからこそそれに魅せられるのかなと思うわけです。足を留めたくなる様な何気ない魅力みたいで美は愛と同じ様に感じます。絶対的普遍な美の前に時代時代の美意識がフィルターとなって主観的な美となっていると思う。日本の侘び寂びも日本の自然美から起きた美意識で、古代ギリシャ彫刻とか神殿の黄金比は数学的美から起きた美意識だと考えます。織部焼を侘び寂びの精神(美意識)知らずに良い悪いの判断なんて出来ないのと一緒だと思うのですね。愛と美に人は魅せられ集まり、一つのコミュニティーを創る。出来たコミュニティーは愛と美ではない繋がりに変化する。お金とか名声とかね。それらが時代時代の美意識となって移り変わり今の美意識になってると思います。現代人も原始人も普遍的に変わらないものだと思いますよ。主観的美意識って金や名声で得れるしその歴史が美意識フィルターを創ってる。イデアに関してはイデア論だけで物事を考察するには無理がある。
大きい普遍的美という幹があって主観的美意識っていう枝があるって事なんだと思うよ。
33章日本の美の源流は縄文
装飾過剰ともいえそうな陽明門や、絢爛豪華な金屏風の美。その一方で、「わびさび」のようなそぎ落とされた世界。相反するような美の世界が日本には存在しています。
これら日本の原点と思える美のとらえ方が、縄文時代の流れの中で生まれていました。土器をはじめとする道具を目の前に置き、機能面では不要とも思える過剰な装飾をひたらすら施した縄文人の姿が浮かびあがってきました。縄文人は熱い思いを秘めていました。

第34章障碍者アートとは
近年障害者アートには専門家の注目が集まり、各地の美術館の展覧会のプログラムに加えられることが多くなり、作家として作品が販売されるケースも見られるようになりました。当初は、障害者の特異な作品として珍しがられたり、障害者の自己実現を応援するものとみなされたりしましたが、現在は、現代アートの世界にインパクトを与えるムーブメントとして純粋に評価されるようになってきました。

障害者アートの作家たちの多くは、正規の美術教育を受けていません。その意味ではみんなアマチュアとも言えますが、現代アートの世界では、正規の美術教育を受けているかどうかは、もはや問題にはならないと、言います。「例えば、ポップミュージシャンに、どこの音楽大学を出ているのかなんて、誰も聞きませんよね。こういう言い方は語弊があるかもしれませんが、伝統的な美術教育によって、歪められていないところもいいのです」。

第35章イラストの美学
イラストの『構図』はイラストを見る人に『こんな風に見せたい』という作者の意図を伝えるための重要なカギになります。作品の中の要素を、どんなふうに見せると効果的か、どう配置すると美しいバランスになるか、よく考えながら構図を決める。



















1.配置の基本

フレームの中心よりやや上のエリアが、最も視線が行きやすいところです。

キャラクターの顔など、見せたいものはこのエリアに入れるとよいでしょう。ど真ん中じゃなくて、「ちょっと上」ってところがポイント! 

三分割法

三分割法とは、縦横に3等分した線で構図のバランスをとる技法です。 
分割線の交点に、顔や重要なモチーフなどイラストのポイントを置くように構図を作ります。分割線を目安に水平線を入れたりする。
構図の中に三角形を作る
絵の中に三角形を作るようにすると、バランスのとれた美しい構図になりやすい。 
配置に迷ったら三角形を作るように置いてみる。
■三角構図
メインのモチーフが三角形になっている構図を三角構図といいます。
三角構図は画面が安定します。
イラストが平板にならないようにしています。

2.並べるときのルール
均等配置
キャラクターを一直線上に均等に並べています。
この構図は各人物それぞれに視線を誘導できるため全員を同等に見せたい場合に使えます。
▼キャラクターの関係性(物語性)よりも、デザイン的に配置された印象を与えます。
ジグザグ配置
手前の人物を目立たせるような構図です。
ランダムに配置する構図はバランスをとるのが難しいので注意が必要です。
ポイントをジグザグ線で結ぶようにすると、まとまりやすい。 
▼メリハリのきいた構図は、注目させたい特定の人物がいる場合に有効です。
POINT
イラストの中で『何を目立たせたいか」で構図が決まる!
▼手前と奥にキャラクターを配置した奥行きのある構図は背景に風景を入れてもなじみやすいでしょう。 

3.アングルを変える(アオリとフカン) 

アオリ

低い場所からカメラを上へ向けるように、見上げる構図をアオリといいます。
対象を大きく見せる効果があり、迫力を出したいときや、力強い表現に向いています。
 フカン
高い場所からカメラを下へ向けるように、見下ろす構図をフカン(俯瞰)といいます。
ものの位置関係や全体の状況を伝えやすい構図です。

4.構図が与える印象
水平・斜め
イラストは、画面を水平に描くのが基本ですが、斜めにした構図もよく見られます。
斜めの構図は不安定さや動いている感じを出すことができます。
▼斜めの構図は動いている感じが出ます。
▼水平の構図には安定感があります。
縦構図・横構図
キャンバスを縦長にする縦構図か、もしくは横長にする横構図かで、イラストの印象は大きく変わります。
縦構図は視線が左右に散らないため、1つのものを大きく見せるのに適しています。
風景の広がりが強調される横構図は、比較的人間の視野に近いので、見る人に安心感や安定感を与えやすいのが特徴です。
対象を切り取り、見せたいものをクローズアップしやすい構図です。
▼横構図
風景の広さを表現したいときは横構図を選ぶとよいでしょう。
圧迫感と開放感
空間の描き方によってイラストの方向性が変わります。
広く空間をとった開放感のある構図は明るいテーマのイラストに向いているでしょう。
逆に、要素を詰め込んだ構図は圧迫感があるため、シリアスなテーマのイラストや緊張感を表現したいときなどに使うとよいでしょう。
開放感のある構図
空間を広くとったイラストです。線の量も少なめです。
圧迫感のある構図
線の量が多く、空間が少ないイラストです。
上からの圧迫感
画面上部に大きいものがあると不安・圧迫感が出ます。

第36章美意識の源流
一体どこまで遡ればいいのか?1億年以上も昔のアルタミラの洞窟画ではないだろう。旧石器時代のことだ。我々との連続性は感じることはまず無い。
それなら紀元前2、3千年位の古代エジプトはどうか。彼らの死生観を表す絵や平面的な様式などは、確かにエスニックで珍重はするのだが、これも何ら近親の血が騒ぐようには思えない。
やはり我々の美意識は、およそ紀元前5世紀ころに始まったギリシャ美が、地続きと言う意味において、今日の直接の始源だろう。つまり今から2500年くらい前に我々の美の原型が出来上がり、今もなおその規範に従っているーーそう考えておくのが健全に思われる。ルネサンスなど西洋美術の流れを俯瞰すれば、絵画や彫刻の楽しみは遥かに深くなり、快美の念をいや増してくれるに違いないことを断言する。紀元前5世紀の頃と言うと、ギリシャ哲学の事が思われてならない。美術と同様に、現代哲学もやはり同時期にギリシャ及びその植民都市で始まっているのだ。ギリシャ人は、ホメロスの《オデュッセイア》に代表される長い長い神話的な物語世界の時代からその頃ようやく抜け出し、人間の精神史で初めて、世界を科学的ともいうべき理性による思考法で捉えようとした最初の民族だった。例えば哲学者の元祖とされるターレスは、万物の根源は「水」であると主張した。世界の根源は「火」であるなどと唱えた哲学者もいた。その当否は別にして、世界を現象の奥にある統一的な原理で解釈しようとしたことは画期的に新しいことだった。有名なソクラテスの弟子プラトンは、この統一的原理を「イデア」と呼ぶ。アテナイの学堂》ラファエロ 1509-1510バチカン宮殿 中央向かって左が天上を指す理想主義のプラトン
顔はダヴィンチで表現、右はアリストテレス   
今でいえば、一種のモデリング思考であるが、目に見えない理想的な絶対原理を求める思考の特
性は、科学や数学を生み出すもととなる。近代知の始まりだ。またこれが美学に応用されると、完璧な人体の理想美を求めてやまない芸術表現となる。ギリシャ美術における人間は、完璧な比例美をはじめとして、理想の規範
を内包しているべきだ。当時のギリシャの芸術家はプラトンらのイデアの哲学を敷衍して、そう考え
たのではあるまいか。哲学と美術は、同じテーブルで語られることは少なく、
ギリシャ哲学と美学を関連付ける論考は見たことがないが、両者は関係している、と言うか通婚し
ている。ギリシャ哲学とギリシャ美は夫婦のように一体である。ーー僕はそう断定する。

第37章パソコンでの絵画

 油絵、水彩画、日本画などの各種の画材に、それぞれ良いところ、悪いところがあるように、パソコン絵画にも他の画材に比べて優れている点、劣っている点があります。

良いところ
 まず、手軽ということでしょうか。これは、最初に画材(パソコン絵画の場合ならソフト、周辺機器)をそろえるのが簡単という点と、実際に描くのが手軽という2点があります。
 では、機材の購入からいきましょう。油絵や水彩画だったら、まず何をそろえるべきかを考えるところで苦しんだりします。画材店に行けば初心者用の入門セットも売っていますが、その豪華さによってセットに何段階かあったりしますし、別途キャンバスや紙、イーゼルなども必要になってきます。誰のアドバイスも受けずに一人でいきなり画材を購入するには、やや勇気がいりますし、どうしていいか分からない方も多いと思います。また、絵を描き進んでいくと、道具が入門セットだけでは足りないことにすぐに気付くことでしょう。筆、絵具のほか、油絵ならオイル類も最初にそろえたものだけでは不自由を覚えるようになります。
 パソコン絵画は、お絵描きソフトとタブレット(ペン型入力装置)の2つ、更に描いた絵を紙に打出す場合には、これにプリンターがあれば、ほぼ全てこと足ります。ソフトの種類は色々ありますが、絵を描く上での基本機能は同じようなものなので、ソフトの選択ミスが致命傷につながるようなことはないと思います。また、無料ソフトにも市販ソフトに負けない機能を持っているものがありますから、そうしたものを使って、まずは試しに始めてみるということも出来ます。従って、始めるに当たって道具も余り迷う必要はありませんし、上達していく過程で絵具や筆を買い足す必要がありません。キャンバスも水彩画紙も消費しませんから、初期投資だけでずっと描き続けられます。
 もう1つの手軽さは、絵を描く準備がほとんど必要ないということです。油絵や水彩画の場合、家にアトリエを持っていない限り、描き始めるのにそれなりの準備時間が必要になります。絵具箱を開いて、絵具や筆を出し、イーゼルをセットしてキャンバスを立てかけたりしていると、最低でも15分はかかります。日本画に至っては、準備をするだけで疲れてしまいます。しかし、パソコン絵画なら至って簡単。パソコンを立ち上げればよいだけです。それと同時に片付けも簡単。油絵の後片付けは、紙パレットを使っていてもなかなか面倒です。パソコンなら画像を保存して終了ボタンを押すだけです。例えば、平日の深夜に家に帰ってから30分だけ絵を描くことも、パソコン絵画なら可能です。
 手軽さ以外のメリットとしては、場所をとらず家族に迷惑をかけないということが挙げられます。私の経験では、油絵や水彩画は小さい作品でも描くにのにそれなりのスペースが要ります。このスペースとは、単なる空間という意味だけでなく、描いている間、家族が立ち入りを禁止される区域を意味します。油絵を描いている横を子供がうろちょろすると、誤って子供がキャンバスに接触して服に油絵具がつかないかとか、筆洗い用のバケツをひっくり返して絨毯を台無しにしないかとか、いろいろな心配が生じて、のんびり絵を描いている場合ではなくなります。
 もう1つ家族との関係で言えば、パソコン絵画は臭いがしないという点も挙げられます。油絵具や各種オイルの臭いは、油絵中毒になると心地よいものがありますが、一般人からすれば異臭です。日本画の膠を煮る臭いに至っては、趣味でやってる私自身もやや胸が悪くものがあります。アクリル画も、近づくとアクリル・ポリマー独特の臭いがします。パソコンは一切そうした臭いがありません。
 実際、絵を描くうえでも、パソコン絵画は注目すべき特技を持っています。一度使った色を簡単に何度でも再現できるという点です。これは、他の画材に比べて圧倒的に優れている点だと思います。絵画の世界でよく言われるのは、自分で混ぜて作った色は2度と同じ色が作れないということです。普通に絵を描いている人なら、前に描いたのと同じ色を作ろうとして悶々と絵具と格闘した経験がおありだと思います。だから、なるべく色を混ぜなくて良いように、沢山の色の絵具を買い込むわけです。一度塗った色と同じ色を作れないとなると、描いた翌日に同じ色を使っている部分を描き足したり修正したり出来なくなりますから、深刻な事態が生じます。とくに微妙な色調を使っている場合は致命傷です。パソコン絵画の場合は、全く同じ色を何度でも再現できますから、同じ色の個所を毎日10分ずつ、3日間に分けて描くことも可能です。これは、他の画材から見れば驚異的なことです。
 他にもいろいろ利点はありますが、最後にもう1つ挙げておけば、絵の初心者にとって、ソフトが大いなる救いの手を差し伸べてくれるという利点があります。もう少し詳しく言えば、1つは簡単に描き直しがきくということ、もう1つはソフトの各種機能が技術不足を助けてくれるということです。

 「元に戻す」という機能で前の状態に戻れますから、何度も試し描きをしたり、失敗を直したり出来ます。通常の絵の場合、油絵や厚塗りの日本画の場合は多少の修正はききますが、水彩画、水墨画などは修正がききません。つまり、いつも決定的な色を間違いない位置に塗っていく必要があります。一筆の間違いで絵が台無しになったりします。パソコン絵画には、こうした心配をする必要がありません。緊張感なく気軽に描いて、失敗したら簡単に修正できます。
 もう1つパソコン絵画が初心者にやさしい点を挙げると、ソフトの各種機能が技術不足を助けてくれるという点です。通常の絵の場合は筆1本の勝負ですから、各種の表現を自分なりに学び練習する必要が出て来ます。パソコン絵画では、ソフトがこの部分を助けてくれる場合があります。例えば、空に浮かぶ雲のフワッとした感じを油絵でキャンバスに描こうとすると、それなりの練習が必要になりますが、パソコン絵画ならエアブラシの機能を使って、初心者でも比較的簡単にできます。また、テクスチャーなどを上手く利用することによって、人物画の背景を簡単に作ったりすることも可能です。一旦、油絵や水彩画をやっている人がパソコン絵画を始めた場合は、余りこの点にありがたみはないかもしれませんが、本格的に絵を描くのはパソコン絵画が初めてという人にとっては、頼りになる存在だと思います。

悪いところ
 便利づくめのようなパソコン絵画ですが、もちろん欠点もあります。私が感じたことを幾つか挙げておきましょう。
 まず、普通に絵を描くのと違って、筆先から線や色が出てくるわけではないため、多少の感覚の馴れが必要です。パソコン絵画は普通に絵を描くのと違って、手元ではなく画面を見ながら筆を運びます。手元を見ながら絵を描く習慣が身についている我々にとっては変な感じがします。
 次に、絵全体を見渡しながら絵を描くわけにはいかない場合があるということです。これは、描いている途中のパソコン絵画は、パソコンのモニター画面上からしか見ることが出来ないという制約のためです。もちろんパソコン画面上で絵の拡大縮小は可能ですから、絵の大きさ如何にかかわらず、絵全体を見ることは常に可能です。しかし、例えばある部分に細かい描き込みをしようとすると、その部分を拡大して描かなければならず、絵全体が見えなくなります。普通の絵の場合には、幾ら細部を描こうが全体は見えていますから、バランスなど簡単に分かりますが、パソコン絵画の場合にはそこが少し不便です。
 もう1つ困るのが、絵の大きさです。パソコン絵画をモニター画面上のみで楽しむ分には何も問題ないのですが、良い作品が出来たので紙に打ち出そうとすると、プリンターで扱える紙の制約が出て来ます。家庭用プリンターでは、通常A4(29.4センチ×21センチ)までが打出しの限界です。これは、キャンバスで言えばF4号(33.3センチ×24.2センチ)よりも小さなサイズで、水彩額なら「八切り」(24.2センチ×30.3センチ)にマットを入れて飾る仕様になります。要するに小品しか制作出来ないわけで、大作指向の人には向きません。
 あと、技術的なことを言えば、パソコン絵画は、タブレットというペン型入力装置で描くわけですが、本物の筆ではないため、穂先を使った微妙な表現には向いていません。また、絵具が持つ独特の表現、例えば水彩の場合の水と絵具の絡み合いや、油絵具のボリューム感は出ません。日本画、水墨画で言えば、破墨法、發墨法的な伝統技法は使えません。しかし、これは、どの画材にもくせや得手不得手があるので、ひとりパソコン絵画のみが劣っているとは言えないような気もします。日本画には日本画の技法があるように、パソコン絵画ではパソコン絵画らしい技法を確立するということではないでしょうか。




つぎに、パソコン絵画を始めるための準備編です。ただ、準備といっても別に大変なことはありません。 まずは必要な道具の話ですが、簡単なイラストならともかく、風景画、人物画、静物画などを本格的に描こうと思えば、マウスで入力というのはしんどいものがあります。やはり、鉛筆や筆を持つような感じで入力できないと、うまく描けません。これを可能にしてくれるのが、タブレットと呼ばれるペン型入力装置です。これは、四角いお盆のようなプラスチックの板とペンとがセットになったもので、板の上でペンを走らせるとパソコン画面でその通りに線が引けたり、色が塗れたりします。当然のことながら、これは画材店ではなく、パソコン・ショップで売られています。パソコンで絵を描くうえで、タブレットは何よりも重要な道具だと思います。極論すれば、市販の立派なお絵描きソフトは要りませんが、絵を描く以上、タブレットは必要です。タブレットは大きさや性能によって値段がかなり違ってきます。ちょっと試しにということなら、普及型のものでも充分だと思います。
ソフトですが、これはピンキリです。一番簡単なのはWindows付属の「ペイント」(「プログラム」→「アクセサリー」と開けばあります)ですが、もっと高機能な無料ソフトも巷で利用されています。他方、プロが使っているような高価なものは10万円近くしますが、本当に趣味として続けるかどうか分からないなら、いきなり高価なソフトを買う必要はなく、まずは無料ソフトで試し描きしたり、市販ソフトのお試し版を使ってみるということでしょうか。特に、既に油絵なり水彩画なりを趣味でやっている人は、自分なりの表現技法はある程度確立しているわけですから、どのソフトを使っても、それなりの絵は描けるはずです。





   パソコン絵画の描き方

簡単な手順を描いておきます。

 なお、ここでは、具体的なソフトの使い方や実例に沿った絵の描き方(いわゆるチュートリアル)まで掲載していませんが、色々なお絵描きソフトごとに、販売元やユーザーがホームページでそうした解説を載せていることが多いですから、使おうと思っておられるソフトの販売元ホームページやユーザーのホームページを検索してみて下さい。

着想(モチーフ探し)
 どんな絵でも、まずは構想を練る必要があります。構想といってもそんな難しいものではなく、何を描くかという問題と、それをどういうふうなイメージで描くかという問題です。絵を趣味にしている人にとっては、こうしたことを考える時間は、ある意味で至福の時間ではないでしょうか。ゆったりした気分でコーヒーでも飲みながら次の絵の構想を練るのは贅沢なものです。実際描き始めたら思い通りに行かなくて苦しむことが多いですから、まぁ考えているうちが花かもしれません・・・。

 何を描くかは全く自由ですが、例えば、虫が好きなら虫を描き続けるというのでもいいわけです。「芸術は高尚なものだから、絵のテーマも高尚なものでなければ」などと考えるのは、これから趣味で絵を始めようとする者にとって、百害あって一利なしです。そんなふうに自分を縛ると、そのうち行き詰まります。最初は、子供時代を思い出しながら塗り絵をするので十分です。高尚な絵は、色々描いているうちに高尚な気分になったら、そのときに描けばいいのです。我々は、描いた絵を評論家から評価してもらう必要も、画商に高く買い取ってもらう必要もありません。 何を描くか考えるという点では、実際に描いてみたい風景や対象物をスケッチなどに取るのも1つの手でしょう。スケッチについては、手書きで描く方法のほか、写真を撮る方法もあります。私は、頭の中で描いたものをそのまま絵に描いていくことが多いのですが、これから絵を始める人はそういうわけにもいかないでしょうから、現実の風景や対象物を参考に絵を描いていった方が、作業が進めやすいと思います。スケッチを取ると絵の練習になりますが、忙しい現代人にとっては写真の方が楽でしょう。絵画を趣味とする人の中でも正統派を自認する人は「スケッチの代りに写真を使うのは邪道」みたいな意識をお持ちの方もおられると思いますが、忙しい現代においては、のんびりスケッチブックを開いていられないことも多々ありますし、そうしたことを許さない場所というのもあります。パソコン絵画に流儀も作法もありません。必要ならどんどん写真を撮って代用しましょう。

 ただ、スケッチ代わりに写真を撮られる場合、一点留意しておかれた方が良いのは、漫然とシャッターを切るのではなく、絵を描くつもりで構図を考えながら写真を撮ることと、1枚だけでなく何枚か撮っておくということです。手書きのスケッチの場合は、絵にした時に細部を描き込みそうな部分をフォーカスして描いたり出来ますが、写真はレンズが漫然と全体を撮るだけなので、あとで現像してみると、まさに絵に描こうとする肝心の部分が、うまく捉えられていないという悲劇が起こり得ます。人間の目というのは良く出来ていて、見たい部分に焦点を合わせて物事を捉えます。しかし、カメラは機械ですから、画面にある全てのものを平等に扱ってフラットにフィルムに焼き付けます。目で捉えられていたものが写真には写っていなかったなんてことはよくあることです。こうして見ると、絵を描く準備と言う観点からは、手書きのスケッチの方が優れた記録手段だと思います。従って、もし写真を撮られるなら、あとで泣きを見ないように、何枚か、色々な角度から、あるいは一部ズームなどして撮られることをお勧めします。

 どういうイメージで描くかについては、構図をどうするか、色合いをどうするか、タッチをどうするか、といったことを考えることになります。構図については、スケッチや写真があると、その通りに描こうとしがちですが、そんな必要はありませんし、むしろ余分だと思われるものは画面から消していった方がよいことがあります。絵画というのは、写真ではないのですから正確性は求められません。要は、絵画というのは現実の光景から美だけをつむぎ出すようなものですから、不純物はいらないのです。 もう1つ肝に銘じておいてほしいのは、「上手い絵」を描こうと過度に意識しないことです。確かに下手な絵よりも上手い絵の方がいいと思いますが、そればかりを目指すと絵が詰まらなくなります。「上手い絵」が心に残るかというと、そんなことはありません。どこか味のある絵の方が、いつまでたっても心に残っていたりします。

設 定
 油絵や水彩画で、まず描く絵の大きさ、言い換えればキャンバスや水彩画紙の大きさを考えることになりますが、パソコン絵画でも同じように絵の設定を考えなければなりません。パソコン絵画は、色のついた点の集合で形成されており、その各々の点を「ピクセル」と呼んでいます。従って、絵の大きさを設定する際には、一般的にはピクセルの数で設定します。これは、色のついた箱を何個並べるかを決める、といったイメージです。1つの箱には1つの色しか入りません。例えば、このホームページに掲載している私の絵は、縦が約800ピクセル、横が約1000ピクセル程度に設定しているものが多いのですが、これは、合計80万個(800×1000)の箱を、縦に800個、横に1000個並べているという感じです。

 
設定の際に考慮すべきは、1つはどこまで細かい絵を描くかという点、もう1つは、完成した絵をプリンターで打出して額に入れるつもりなのかということです。

 細密描写をするなら、ある程度大きな画面に設定して絵を描き始める必要があります。そうしないと、上記の「1ピクセルに1色しか入らない」という制限にぶつかって、細かい描き込みが出来なくなります。まぁ、この辺りは自分で試して感じを掴むしかありませんから、自分の絵のタッチを考えながら幾つか試作してみて下さい。ただ、1つ申し上げておけば、絵の設定は大きければいいというわけではないということです。画面が大きいということは、それだけファイルの容量が大きくメモリーを食うということを意味します。大きな画面設定にしてどんどん描き進んでいくと、そのうちメモリーが足りなくなり、スワップ・メモリーが発動され、筆の運びが極端に遅くなります。気を付けて下さい。

 もう1点の、自分の絵をプリンターで打ち出すための設定の仕方ですが、これは各人のプリンターの性能にもよりますので、自分で試してみるしかありません。特に、印刷する紙の質やプリンターの印刷設定の違いで、打ち出された絵の色合いが大きく変わる可能性があります。幾つかケース分けして実験してみた方がよいでしょう。

下描き
 下描きは、絵の骨組みを決める重要なものですが、パソコン絵画の場合、2つのやり方があります。1つは、タブレットを使って、直接パソコン画面に下描き線を描く方法です。私はいつもこの方式です。もう1つは、紙に鉛筆やサインペンで線描きして、それをスキャナで取り込む方式です。後者の1方式として、写真を下書きとしてそのまま取り込むことも出来ます。ただ、上でも申し上げましたが、写真の取込みをした場合、過度にそれに依存しないようにしないと、余分なものまで沢山描き入れることになります。気が付くと、写真と寸分変わらず全く同じに描いていて、何のために絵を描いているのか分からなくなる場合があります。

制 作

 下描きが終われば、いよいよ本格的な絵画制作となるわけです。

 この段階では、既に構図は出来て下線が画面に入っているはずですから、どう色を塗っていくのかがメインテーマとなります。ここで考えておかなければならないのは、強いインパクトのある配色で構成したいのか、淡いタッチの仕上がりにしたいのかといった問題のほか、画面を支配する色をどういう系統の色にしたいのか、といったようなことです。強い色でインパクトのある絵を描く場合には、同じ程度の強さの色を何色も画面に取り込んで焦点が定まらなくなるとか、補色(反対色)を大胆に使って目がチカチカする、といったことを避ける必要があります。淡い配色で画面をまとめる場合には、画面全体がボケて何が描いてあるのか分からない、といったことにならないように配慮しなければなりません。もう1点の、画面を支配する色に関してですが、春をテーマに重く冷たい色で描くといったことは、何も言われなくとも初心者でも避けると思います。しかし、メインになる色と脇役になる色の関係というのは、意外と配慮がおろそかになりがちです。これを上手く組み合わせないと、画面構成上メインになる色が活きません。色というのは、その周りにある他の色との相対で人間の脳に飛び込んできます。同じ色でも、周囲の引き立て役の色が上手く合っていれば輝いて見えますが、組み合わせに問題があると、メイン色が死んでしまいます。色々組み合わせを試して、自分なりの色使いを研究してみて下さい。

 色の乗せ方としては、だいたいの色を荒く乗せて、全体の色バランスを見て調整したうえで、細部を書き込んでいく方法が無難でしょう。色を調整するのに、幾つかの部分に分割して別レイヤーにしておくと便利です。レイヤーというのは、透明なシートのようなもので、その上に絵を描きます。レイヤーは何層にも重ねることが出来、全体の絵はこれら全てのレイヤーを重ねたうえで、通しで見る形になります。丁度アニメのセルのようなものです。油絵や水彩画では絶対にあり得ない便利な道具で、そうした意味では、レイヤー機能を持ったお絵描きソフトの方がいいでしょう。無料のお絵描きソフトの中にもレイヤー機能を持つものがあります。ただ、余りレイヤーを作りすぎると、ファイル容量が増えてメモリーを食い、時としてスワップ・メモリーの発動につながります。注意して下さい。

  ところで、実際に制作するに当たって、どの程度お絵描きソフトの機能を覚えていかなければならないのでしょうか。これも人によって千差万別ですが、私の場合は、使用している Paint Shop Pro というソフトの機能のほんの僅かしか使っていません。いまだに使用したことのない機能も沢山あります。イラストや絵を描く機能に特化した一部のソフトを除くと、ポピュラーな普及版お絵描きソフト(Paint Shop Pro もこれに当たると思います)には、デジタル写真のレタッチやホームページ用のロゴ作りのための機能が豊富に盛り込まれています。こうした機能は、絵を描く際には余り使いません。従って、買ったソフトの機能を片っ端から勉強する必要はありません。
分厚い取扱説明書を端から読もうとして挫折することのないようにして下さい。

 では、絵を描く際によく習得しておいた方がよいソフトの機能とは何でしょうか。私は、ブラシの詳細設定の仕方ではないかと思います。私自身、相当頻繁にブラシの形状や透明度、密度などを変えます。平均5分に1度はチェックして変えているような気がしますし、気に入ったタッチが出るように何種類か筆先を自作(いわゆるカスタムブラシというやつです)しています。油絵や水彩画、日本画などは筆に相当気を使います。パソコン絵画だって、それと同じことです。

完 成
絵を完成させるのには、思い切りが必要です。自分で描いていて中々満足できず、ダラダラと描き続けるということがあると思います。特に、完璧を期すことにこだわる人が、こうした描き方に陥りがちです。しかし、これを続けていけば必ず満足する絵になるという保証はありませんし、描き込めば描き込むほど、思っていたのとは違う方向に進むこともあります。そういう場合には、ある時点で「この絵はもう完成したことにしよう」と区切りを付けて、その作品が不満足な出来なら、また別の絵に取り組み始めた方が、よい結果が得られることが往々にしてあります。こうしたことはパソコン絵画のみならず、油絵など一般の絵画でも起こり得ることです。私の場合、通常の絵であれば、画印(絵に押す印鑑)やサインを入れることにより入筆打ち止めにしています。パソコン絵画についても同様の手法を取り入れ、サインを入れるかパソコン上で作った画印を入れたうえで、プリンターに打ち出して額に入れることで「完成」としています。なお、このホームページの絵に画印やサインが入っていないのは、プリンターに打ち出す絵にしか画印やサインをいれないという私の流儀に基づくもので、別に未完成品を掲載しているわけではありません。

 なお、完成した絵を印刷して額に入れるかどうかは各人の自由ですが、私は、何枚かのパソコン絵画をプリンターで打ち出して額に入れ、他のアクリル画や水彩画とともにリビングルームなどに飾っています。何も知らない人は、すっかり手書きの絵だと思っているようで、こちらがパソコンで描いたと説明しても信じない人もいます。こうして壁に飾っておけば立派なインテリアになりますし、人の家に招かれて行った際に1枚手土産替わりに持参すると喜ばれます。壁に飾る前提で描けば気合も入りますし、皆さんも一度試されては如何でしょうか。


 絵を描くのうえで大切なのは、描こうとする対象(風景、静物、人物など)をよく観察することです。
 人間の記憶というのは偉大なもので、自分で意識していなくても物をかなりよく観察して記憶しています。よく、部屋の中の物の配置が変わっていると、何が変わっているかは指摘できなくとも、何か違うと感じたりしますね。絵を描いていても同じことがおきます。対象となるものをよく観察せずに想像で描くと、実際の風景や物と違ってしまったりします。例えば、よく澄み切った青空でも、青いのは上の方だけで、地平線に近くなると薄い青からほとんど白になったりします。脳はこれを無意識のうちに覚えているわけです。しかし、よく見ずに、空を一面青く塗ってしまうと、のっぺりとして何だか立看板が背後にあるような雰囲気になってしまいます。このとき、脳が「この絵は何かおかしい」と教えるわけです。しかし、意識の上には何がおかしいのか上ってこないので、「どうも上手く絵が描けない」と思い悩むはめになります。
 これを解決するためには、物をよく観察する目を養うしかありません。絵の上手い人は、スケッチのときによく頭が動くといいます。要するに頻繁に対象を見ながら筆を運んでいるのです。そういう意味では、下書きがてらスケッチするのと写真を撮るのとでは、意味が違ってくるわけです。
 また、ものをよく見るくせをつけておくと、絵を描いていないときでも、色々なものをよく観察するようになります。駅で電車を待っている間に町並みを見て絵を描くならどういうふうに描くのかを考えたり、通勤通学途上の街路樹を見て枝の張り方や葉の付き方をしげしげ見たり。こういう態度が自然に身に付くと、絵を実際描いていくうえで、結構な財産となります。俗にいう「絵心」というのは、こうした習慣の延長線上にあるような気がします。



絵画の本も読むこと

 パソコンで絵を描く場合、使っているお絵描きソフトの解説本をバイブルみたいに読むようになっていませんか。確かに解説本は便利ですが、あれはソフトの使い方を解説してあるだけで、実際の絵の描き方そのものを説明してはいません。絵の描き方を解説してある本もありますが、絵を描く上で役に立ちそうなソフトの機能を紹介することが主眼です。そこでは、構図をどう取ればバランスがいいかとか、見る者の視点を画面のどこにどうやって集中させるか、色のバランスの取り方や表現技法といったことは、ほとんど扱っていません。こうしたことは、ソフトの解説書が扱う分野ではなく、絵画の教本の守備範囲なわけです。で、あれば、一度くらいは絵画の教本(入門書の類)には目を通しておくことをお勧めします。
 油絵画家や日本画家、水彩画家といった人が、どういうプロセスを経て絵を描いて行くのかを眺めるだけでも、結構勉強になるはずです。



「まねぶ」こと

 学校の美術の授業以来絵を描くのは久し振りという人にとって、お絵描きソフトを使って何をどう描けばいいのか、最初は色々思い悩まれることと思います。幾ら自己流でいいとはいえ、さて正式に自分の作品を描こうとすると、画面を見つめたままウーンとうなるばかりという人もおられるかもしれません。そういう方には、一つの刺激として、一度誰かの作品をそっくりそのまま真似て描いてみることをお勧めします。
この文章の見出しに使った「まねぶ」というのは古語ですが、漢字としては「学ぶ」と書きます。この「まねぶ」という言葉には、現在一般に使われている「勉強する」「自分を磨く」といった意味のほか、「他人をまねる」という意味も入っています。つまり、「まねる」のも「まなぶ」のも、昔はさほど区別がなかったわけですね。確かに、昔は学校がありませんから、学ぶといっても、師匠や先達のまねをしながら手探りで自分を磨いていくしかなかったわけです。「芸を盗む」「匠の技を盗む」なんていうのも、同じ発想です。これを、絵画に当てはめると「模写」ということになります。
「模写」は、今でも絵画技術を磨くうえで1つの方法だと思います。
「模写」をやるうえでの留意点を申し上げておくと、余り高度な絵の模写はやらないということです。何より疲れるし、途中で挫折する可能性が高いからです。従って、幾ら気に入っていても、いきなり「ナポレオンの戴冠」とか「洛中洛外図屏風」とかを模写するのはやめた方が無難です。
余程の練達でない限り、間違いなく構図の取り方や色の使い方について試行錯誤することになります。まさにそれが勉強になるわけです。パソコンに下絵として取り込んだりしたら、完全に「なぞり絵」になってしまって、あまり得るものがないと思います。




相談できる趣味の仲間を持つこと

 昔から天才芸術家は孤独と言いますが、そうはいってもその天才を理解する友は常にいました。精神を病んだゴッホにさえ、ゴーギャンという友達がいました。絵を描いていると、時として行き詰まったり、自分の絵の客観的評価が分からなくなって、悩んだりすることもあると思います。そういうとき、同じように絵を描くことを趣味にしている仲間がいたら、何かと助けになります。自分の絵を見せて批評してもらうこともできますし、何気ない絵画談義の中からヒントが得られることもあります。
 望むらくは、自分より技量が上の人と付き合った方が得るものも大きいのですが、皆そう思っていますから、これは中々難しいかもしれません。ただ、出来ることなら、同じような絵を目指している人(花の絵が好きなら花の絵を描いている人)がいいと思います。人物画ばかり描いている人と静物画談義をしても話題が弾みません。あと、ひたすら絵を褒めてくれる友達というのも心地良いものですが、出来れば建設的な批評を寄せてくれる人の方が得るものは大きいような気がします。批評というのをどう受け止めるかは人それぞれです。全く無視して我が道を行くという人もいれば、素直に取り込む人もいます。所詮趣味で絵を描いているのですから、批評を余り気にする必要はありませんが、意外なヒントが隠れたりしていることもありますから、最初から無視してかかるのはもったいない気がします。

 1枚の絵が完成するまでに必要な時間というのは各人まちまちです。私の場合はかなり筆が速く、このホームページに掲載している絵は、長いものでも4時間程度で仕上げていますし、習作の類だと描き始めから完成までの時間が1時間を切っているものもあります。
 ゆっくり描こうが速く描こうが各人の自由ですが、自分の絵を描く速度を考えて、自分なりの制作プロセスをよく練っておいた方が良いと思います。
 まず速筆の場合ですが、必ず作業を2日に分けた方が良いと思います。理由は、新たな目で作品を見るというプロセスが必要なためです。一気に描き上げてこれで完成と思っても、翌日見ると修正した方がよいと思われる個所が出て来たりします(出てこないことも勿論ありますが)。従って、興が乗って一気に描き上げても、最後の仕上げ的に翌日もう一度見てみるというクセを付けることが必要です。
 次に遅筆の方の場合ですが、こちらは気を付けないと途中で気力が途切れて、完成を見ないで終わる作品が続出するおそれがあります。1枚の作品を描き上げていくためには、その絵の主題(モチーフ)に対する情熱をそれなりに持続させていく必要があります。プロの画家の精神力はたいしたもので、壁画のような大きな絵の場合、軽く1年以上かけて完成させています。しかし、我々アマチュアは、絵とは別に学校や職場という本来の活動の場を持っていますから、絵画制作に対する集中力が往々にして途切れやすい環境にあります。気力が途切れると、その絵の完成に向けた情熱が失われ「また暫くしてから描こう」という気持ちになって、制作過程の絵は永遠に完成を見ることなく封印されるおそれがあります。
 そうならないためには、情熱を失わないよう精神を鍛えるか、最初の制作時に長めの時間を取り、1日目で必ず下塗りまで持っていくといった進行管理が必要になります。描こうと思い立ったその瞬間が、その絵に対するエネルギーが一番充実しているときです。それを絵の完成まで持続していけるだけの精神力があればそれでいいわけですが、ないとすると、初日の作業が重要になります。1日目で全体の構図設定と大まかな色の割り当てさえ終われば、ある程度完成時の姿が見えてきますから、あとは時間をかけて細部の描き込みをしていくだけで、途中棄権の可能性は少なくなります。逆に、完成の姿が全く見えない状態で一旦筆を置いてしまうと、後日筆を取り直したときに、完成時のイメージが呼び起こせなかったり、方向性に迷いが生じたりすることがあります。一番危険なのは、夜中の12時頃に突然思い立って30分だけ下線入れをして、その後忙しくて1週間ほど放っておくといったようなパターンです。寝かせておくうちに絵の構想が熟成されていくこともありますが、そのときには最初に描いた下線が、最新の構想に沿わなくなっていることも多く、描き直しが必要になったりします。



DCGと3DCG

 パソコン上で絵を制作する際、Paint Shop Pro のようなお絵描きソフト(2DCG)を使うのと、3Dのコンピューター・グラフィック・ソフト(3DCG)を使うのと、2つのやり方があります。この2つはどう違うのでしょうか。
 私は、3DCGソフトについては専門家ではありませんし、まじめに取り組んでおられる方の足元にも及ばない程度の技量しか持ち合わせておりませんが、物見遊山で、試しに使ってみたことはあります。そのときの感想を中心に、幾つか違いを書いておきます。
 まず、制作方法が決定的に違います。いくら各種の機能が付いているとはいえ、2Dのお絵描きソフトは、手を使って絵を「描いている」という感覚です。一方、3DCGの場合、絵を「描く」のはソフトそれ自体であって、人間の側は、コンピューターが絵を描く際の対象となる立体を作ってやるという感じになります。たとえて言えば、モデルさんを指定してやって「こっちの角度からこうやって描いてみて」と、コンピューターに指示している感じですね。小学校の図工の授業で言えば、普通に絵を描くのが2DCGで、針金や粘土で工作をやって完成したものを写真に撮るのが3DCG、という感覚でしょうか。従って、絵を描くのは大の苦手だったが工作には自信があったという方なら、3DCGの方が性に合うかもしれませんね。また、子供の頃プラモデル作りや粘土細工が無性に好きだったという方にもお勧めです。
 もう1つ違うのは、完成した時の質感でしょうか。写真のようなリアルな質感を追求している方は別かもしれませんが、やはり2DCGには手作りの暖かい趣きがあります。他方、3DCGは、本物と寸分違わないリアルな質感が売りで、誰でも写真のような驚異的な描写を得ることが出来ます。
 レイヤー
● レイヤーとは何か

 仮想の透明シートだと思って下さい。この透明なシートの上に描画ソフトで線を引き色を塗ると絵が描けます。その意味では、レイヤーはWindows付属の「ペイント」の画面と同じなわけですが、唯一違う点は、1つの絵の中で、この透明シートを何枚も地層のように重ねられるという点です。

 例えば、一枚目のレイヤー一面に、青い色を塗り白で雲を描きます。要するに空です。その上にもう一枚レイヤーを重ねて、山を描きます。そしてその上にもう一枚レイヤーを作って草原を描き、更にもう一枚レイヤーを重ねて木を描きます。この4枚のレイヤーを重ね合わせて見ると、白い雲の浮かぶ青い空を背景に、遠景に山が描かれ、手前の草原には木が一本植わっているという風景画が完成します。
 上に書いた風景画と同じ絵は、Windows付属の「ペイント」でも描けます。しかし、この絵を若干手直ししたいと思ったら、レイヤーのあるなしで全然手間が違います。

 例えば、上記の風景画で、手前の木の位置をもう少し右にずらしたいとします。「ペイント」だと、まず既に描いてある木を消すため、背景を描き足す形で木を塗りつぶしていき、改めて新しい木を描き加える必要があります。これは、絵具と筆で絵を描いている場合も同じです。要するに、事実上、画面全体にわたって描き直すという手間がかかるわけです。

 しかし、レイヤーを重ねて描いた場合だと、これは一瞬で出来ます。4枚目の木が描かれたレイヤーだけを少し右にずらせばいいわけです。絵具と筆で絵を描いてきた人から見れば、画面上に自分が描いたあるパーツだけ移動させるなんていうことは、驚天動地の技だと思いますが、レイヤー機能のあるソフトを使って描けば、いとも簡単にこれが可能になります。
 今度は、木を描くのをやめて小屋を描きたいとしましょう。この場合は、4枚目のレイヤーだけを削除し、新しくレイヤーを作り、小屋だけを描き加えればいいわけです。

 加筆も容易で、上記の風景画で、山と草原との間に森を追加したいとしましょう。この場合は、山を描いたレイヤーと草原を描いたレイヤーの間に新規のレイヤーを一枚作り、そこに森を描けばいいのです。
 レイヤーには他にも沢山のことが出来ます。例えば、既に何かの絵が描いてあるレイヤーをコピーして、もう一枚同じレイヤーを作れますし、あるレイヤーだけ透明度を変えたり、色相を変更したり出来ます。

 こうした機能を使うと、例えば森はこんなふうに描けます。まずレイヤーの上に、森の形に単色で色を塗ります。そしてこのレイヤーを何枚かコピーします。そのうち、あるレイヤーについては色をにじませて森の木々の表現を組み込み、またあるレイヤーについては木々の陰影を描き込み、他のレイヤーには光の当たり方によって出来るグラデーションを描きます。こうした何枚かのレイヤーを透明度を加減しながら重ね合わせて見ると、森の複雑な表現が比較的容易に出来ます。
 こんなふうにレイヤーは、油絵や水彩画では考えられないような特殊な作業を可能にする道具です。最初は慣れないかもしれませんが、一度使い出すと、これなしには絵が描けなくなるほど便利な道具だと思います。
 レイヤーは上に書いたように大変便利な道具ですが、沢山レイヤーを作るとそれだけパソコンのメモリーを食い、一定限度を超えると描画ソフトの動作が遅くなります。ですから何でもかんでもレイヤーを分けた方がいいというわけではありません。先々の手順を考えながら、必要なだけレイヤーを作るようにした方が、作業が軽快に進みます。

 もしレイヤーを作り過ぎてソフトの動作が緩慢になったら、特定のレイヤー同士を結合することが可能です。もうこれ以上手を加えないと確実に言えるレイヤーが複数あるのであれば、レイヤーの上下関係に気を付けながら、結合できるものは結合してしまえばいいわけです。

 ただ、複雑な絵を描くに当たり、どうしても沢山のレイヤーを使いたいなら、メモリーを増設するという方法もあります。私は1つの絵を描くに当たり、最低20~30枚はレイヤーを作っていますが、それでもソフトの動作が遅くならないのはメモリーを1GB積んでいるからです。メーカー製パソコンをご使用の方だと、1GBのメモリーを積んでいるモデルは少ないと思います。そんなときは、メモリーの増設を考えてみるのも一案かもしれません。

特殊なブラシ


● どんなブラシがあるのか

 油絵や水彩画、日本画で使う筆には、実に様々なものがあります。太筆と細筆といった塗面の大きさに違いが出るものだけでなく、丸筆と平筆のような塗面の形状を変えるもの、油絵の豚毛や貂毛(セーブル)のようにタッチや筆触を変えるもの、日本画の隈取筆のように用途が違うもの、などなど。数え上げればキリがありません。

 パソコンで絵を描く場合にも、現実の筆を真似てタッチを変えられる機能が、描画ソフトについています。塗面の大きさ、形状は言うに及ばず、ぼけた感じ、かすれた感じも表現可能です。他に、鉛筆と筆、チョークなどを描き分けられたり、エアブラシが使えたりと、自在に選択できます。


● 普通の筆にはないブラシ

 現実の世界の筆は実に多種多様と冒頭書きましたが、パソコン上のブラシのバリエーションは更にそれを上回り、信じられないような筆が沢山あります。

 一例を挙げれば、筆先がそのまま何かの絵になっているものがあります。これは星型とか五角形といった模様だけでなく、犬や鳥、家や飛行機、車など、現実の筆では作り得ないような形で色が塗れるブラシが用意されています。例えば、色を選択するパレットから青を選び、車のブラシで画面に入力ペンを置くと、青い車が画面に現れます。勿論、車の大きさも指定できます。

 他にも、写真やイラストを筆先に設定したり、既に自分がパソコン画面で描いたもののうち特定範囲を指定すると、それが筆先から現れるといった特殊な機能もありますが、どういうブラシが選択可能かは、描画ソフトの種類によります。勿論高価なソフトには多種多様なブラシが用意されているのでしょうが、私が使っている「PaintShopPro」のような廉価版ソフトでも、充分なバリエーションのブラシが用意されています。


● 実際にはどの程度使えるか

 さて、以上のように様々な特殊ブラシがあるわけですが、風景画や静物画を描くうえで、どの程度役に立つものなのでしょうか。

 筆先が車や猫の形になっているブラシは、イラストやホームページ用素材を作成するときには便利かもしれませんが、実のところ風景画や静物画を描くうえでは無用の長物となります。では、こういう特殊な形状のブラシに使い道がないのかというと、そうでもないのです。

 特殊形状のブラシというのは、ソフトにもよりますが、自分自身で作れます。例えば、自分で鳥を描いて、それをそのままブラシの形状として登録できる機能を持っているソフトがあります(私が使っている「PaintShopPro」でも可能です)。この機能を使うと、自分が絵を描くうえで繰り返し使う描写をそのまま登録してブラシを作れます。

 私自身が作って時々使用しているこの種の特殊ブラシに、草原の葉の形状を登録したものや、森の木々の陰影を登録したものがあります。前者の場合は、一本々々手描きした草の集合を、ブラシの形状画像として登録しています。1つのパターンだけだと単調な繰り返しになるので、幾つかパターンを作っています。この自作ブラシを選択して塗っていくと、画面に草原の模様が現れます。そのままだと味気ないのですが、幾つか重ねたレイヤーの一枚にこれを入れて透明度を調整すると、いい雰囲気を出す下地として使えます。森の形状のブラシも同じことです。
● 特殊効果とは何か

 絵具と筆で描く普通の絵の場合、全ての表現は描き手の手作りです。雪景色を例に取りましょう。雪が降っている様子を描きたいとすると、筆に白い絵具をつけて、点々と画面に、降りしきる雪を描いていく必要があります。

 しかし、パソコンで描く場合は、降っている雪の量や激しさ、粒子の大きさを数値で指定すると、クリック一つで画面全体に雪を降らせることが可能です。気に入らなければ、それを消して再度数字を入力してやり直すことが可能です。タブレットやマウスで描くことなく、雪が降りしきる様子が瞬時に表現できるわけです。

 このように、人力ではなく描画ソフトの力で表現できる効果を、ここでは特殊効果と総称して解説します。特殊効果という言葉は、皆さんに理解してもらいやすいように私が勝手につけたもので、描画ソフトによって呼び名は様々だと思います。よく使われるのはフィルターという言い方ですが、描画ソフトの中にあらかじめ組み込まれているものについては、単に効果と記されている場合もあります。また、色の調整の項目を操作することによって、特殊効果と同じような効果が得られることもあります。従って、ここで言う特殊効果とは、外延のやや曖昧なフワッとした概念だと思って下さい。いずれにせよ、我々が手描きで描いたものにソフトが特殊な処理を施したり、我々が手描きで描かなくとも、パソコンが一定の表現をしてくれるものだということです。

 なお、これらの特殊効果は、描画ソフトに最初から備わっているものもあれば、有償・無償でインターネット上で配布されているものもあります。無償でも充分活用できる優秀なものが少なくないので、あなどってはいけません。


● どんな効果が得られるのか

 効果はそれこそ様々で、星の数ほどあります。私が風景画や静物画を描くのによく使うものを挙げると、
・単色を分散して沢山の色の粒を作る(スーラの色彩分割みたいになります)
・上記の分散させた色をにじませる(幾つもの色の絵具を薄く塗り重ねて作ったような画面ができます)
・一定方向に画面(レイヤー単位)をゆがませる(縦にゆがませると草の表現に、横にゆがませると波の表現に使えます)
・凹凸を作る(木の肌や葉の表面に使えます)
・ぼかす(遠景のぼけ感や霧の風景に使えます)
・一定の模様をつける(花の絵の背景によく使います)
特殊効果を使い始めてから、パソコン絵画における表現が豊かになったように感じます。ちょっと使い始めると、他の効果の活用方法を考えるようになり、手探りながら少しずつ使用範囲が広がっていきます。

絵を早く効率的に上達させる5つのポイント











効率的に絵を上達させる練習は【模写】


オススメしたい練習方法は模写です。

自分の好きなイラストレーターや漫画家の絵を真似て描きまくりましょう!
それが、理想の絵を描けるようになるための近道です。

模写をしながら5つのポイントを意識することで上達速度は飛躍的に高まります。
それぞれ詳しく解説していきます。
【意識すべきポイント①】形を見る
 と見て模写して・・・を繰り返していても効果はあまり期待できません。

模写していても描き終わってみると元の絵と全然違う、みたいな経験はありませんか?
それは絵のシルエットをとらえきれていないからです。
 例えばマンガのコマを模写するとき、まずメインとなるキャラクターから描き始めたりしていませんか?コマの全体像を最初にとらえるよう意識してください。
一枚の絵の中のバランスを見るのです。

絵は細部から描き込むよりアウトライン(全体像)から描いていくものです。
これは模写のときも意識しましょう。
 キャラクターの形をとらえる時はキャラクターそのものを見るより、キャラクターを形取る線を境にネガとポジで見れるようにしましょう。

そうすると線の内側からだけでなく外側からも形を見ることができるようになり、よりバランスをとらえることができるようになります。
 「キャラクターを描く」よりも「キャラクターを含む1枚の絵を描く」ことを意識し、描写しているモノのネガとポジから多角的に形を見ること。

【意識すべきポイント②】線を見る 
これは特にマンガなどの主線を描く絵を模写する際に意識して欲しいポイントです。
プロの絵はただなんとなく線に強弱をつけているわけではありません。

  • 細い線
  • 太い線
  • ふにゃふにゃな線
  • 勢いのある線

など線の種類を意識的に見て研究してみてください。
 やわらかいものを描くときはやわらかいタッチで、硬いものを描くときは硬いタッチで描かれているはずです。これも、ただなんとなく見ているだけでは気づけない情報です。

プロの絵をよく見て線の引き方さえもトレースできるようチャレンジしてみてください!
  

【意識すべきポイント③】質感表現を見る

デフォルメされた絵でもパッと見でその質感を伝えることができます。


今模写している部分の素材は何なのか、意識して描くようにしましょう。
特にマンガ絵はデフォルメして素材感を伝える表現方法を学ぶには最適です。

白と黒だけで質感を伝える、といった意味ではデッサンと近いかもしれません。
質感表現方法の引き出しを増やせると、あなたの絵のクオリティが一段アップします。

【意識すべきポイント④】重心を見る

人物を描いても  いまいちリアリティが出ない、という方はキャラクターの重心をよく見て模写するといいでしょう。

ただ立ってる絵でも、重心は右足にかかってるのか、左足なのかなど気にしながら見るようにしてください。実際に自分で同じポーズをしてみると、どこに重心が置かれて、どの部分の力が抜けてるのか、など理解できるはずです。今にも動き出しそうな絵というのは、どこに重心を置いているのか?
それがつかめるとダイナミックに描写するヒントとなるでしょう。
  

【意識すべきポイント⑤】描いた絵は積極的に公開する

 効率的に上達するためには”描いた絵を人目に晒す”というのはかなり重要なポイントです。

なぜなら、人に見てもらうことを前提に描くことで完成度を追求できるからです。
公開する予定の無い絵はいくらでもサボれます。

「まぁこんなもんでいいだろう」「飽きたからこのへんで描き込むのやめよう」とテキトーに描き上げてしまった経験はありませんか?

絶対に人に見せなければならないと意識すると最大限描ききろうと努力するものです。
その積み重ねこそが絵の上達には不可欠なんです。


SNSを活用する



TwitterやInstagramに描いた絵を投稿することでいやでも人目に晒すことになります。
最初は、アップした絵に対してほとんど反応は無いと思います。
それが世間のあなたの絵に対する評価です。

くじけずにアップし続けることで少しずつ「いいね」やコメントがもらえるようになります。
的外れな誹謗中傷もあるかもしれませんが、それは聞き流しましょう。

こんな状態でアップしたら(見せたら)ヘタクソだと思われちゃう・・・。
というプレッシャーを自分に課しながら描ききることで、どんどん成長できますよ!



描きながら頭の中をフル回転させるのが上達の近道


効率よく絵を上達するために意識すべきポイントを紹介しました。

・形をみる
・線を見る
・質感表現を見る
・重心を見る

以上の4つを意識して模写に取り組んでみてください。

今何を描いてるのか、なぜこういう表現なのか、と頭の中をフル回転させることでグングン上手くなるはずです。そして

描いた絵は積極的に公開する


絵は必ず完成させること。そして人目に晒すこと。これを意識することで成長速度は速まります。
あなたが効率的にレベルアップできるようぜひ試してみてください!
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